さいきんは地震も多いし、天体も特別な配置になっていて、影響を受けやすい人たちはいろいろ感じるところがあるでしょうね。「さいきん、なんとなく落ち着かない」とか。うちの息子も、生まれて以来、ほとんど夜泣きなんてしなかったのに、ここ数日夜中に起きては泣いています。意味なく泣く子じゃないんだけど。
みなさん、こういう時には、いろんなことで落ち込んでいる人も多いと思うけれど、みんな同じなんだから、元気を出してくださいね。
落ち込んだりしたときには、聖者たちの言葉が「効きます」。『聖者の言葉』、たまに見てくださいね。↓
聖者の言葉
この世に完全な人間などいなくて、みんな迷うし、悩むんですよね。キリストやブッダでさえ、この世に肉体をもって人間として生まれてきたからには、この世の法則に従わなければならず、時には病気もしたり、また個人としてのカルマもあったのだと思います。ぼくが師と仰ぐ方も、時には誤るし、やっぱり完全ではないでしょう。
完全な存在ではないからこそ、この地上に生まれてくるのでしょう。ある一部の人々を除いては。
ぼく自身についていえば…、あんまりというか、自分のことでは滅多に悩みませんね。人のこととか、世界全体のことではいっぱしに悩んだりするけれど。
なによりも、神さまに全託してますから。「神さまの操り人形」だと思ってますから。
霊的世界を探求する人たちの中には、自我のインフレイション(肥大)というか、自分を必要以上の特別な存在だと錯覚している人もいるみたいですが、自分をわきまえるということも大切ですね。
自分を等身大で見ることができるようになれば、自分のことで悩んだりしないようになると思います。
人生のどん底に陥ったように悩んでいる人には、我が尊敬するパラマハンサ・ヨガナンダ師のこいう言葉を教えてあげたりします。↓。
もしこの世に喜びばかりが続いたら、だれが別の世界を求めよう?
悩みがなかったら、
人間は自分が捨てた永遠のすみかのことを
ほとんど思い出すことはないだろう。
苦悩は、それを思い出すための刺激の針なのだ。
−−パラマハンサ・ヨガナンダ
この言葉も含めて、『聖者の言葉』のページには、いろんな聖者の貴重な言葉を集めています。でも、人によってはちょっと難しい言葉もあるでしょうね。意味的に、というよりも、受け入れるのが。
やっぱり、ダライ・ラマ師も言っているように、すべての霊的探求者がたどり着くところにあるのは『無私』だと思うんですね。小さな自分というものを完全に捨てられたときに、大我を感得できるというか。
いわゆる宇宙の絶対的存在と合一するという『神秘体験』ですね。ぼく自身は、不思議体験は山ほどあっても、神秘体験をする境地までは至っていないですね。まだまだ三流の人間かな。^^;
一般にオカルトとかニューエイジとか呼ばれているもののなかで、次元が低いなと思うものは、無私とは反対の方向へ進もうとしているように思えてならないんですね。超能力とかで自分の欲望(夢)を叶えたいとか。
あと、霊的次元でとどまっているというのもダメですね。「上には上がある」ということがわからないというか。さいきんぼくもちょっと霊的世界に足を突っ込みすぎたかも…。
本当の無私になれたら、自分のことでなんか悩まなくなると思います。でも、道はまだまだ遠いですね。ぼくは今生では悟るのは無理かも…(笑)。