この記事は、連載です。(1)から最初に読むことをお奨めします。↓
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20051123/hata
今回は2回目として、秦氏が祀った(かかわった)神社仏閣について書いてみます。
日本人にとって親しみがある多くの神社が、じつは秦氏が関わっていたということがわかって、興味をもつ人がいるかもしれません。
広隆寺
まず最初に、太秦広隆寺(うずまさ・こうりゅうじ)です。
広隆寺は、推古天皇11年(603年)に建立されました。
四天王寺、法隆寺等と共に聖徳太子建立の日本七大寺の一つとされますが、日本書紀では、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜わり、ご本尊として建立したとあります。
秦河勝は、当時の秦氏の長であり、聖徳太子のブレーン的存在でもありました。
京都へ修学旅行に行くと、必ずといっていいほど、このお寺を訪れるのではないでしょうか。
なんといっても、あの美しい弥勒菩薩半跏思惟像(ミロクボサツはんかしいぞう)で有名ですね。
この仏像は、新羅様式で作られているとされています。
新羅といえば、それ以前に伽耶があったところです。
広隆寺はかつては太秦寺と呼ばれましたが、この太秦の一体には、秦氏が多く居住していました。
この太秦寺は、じつは景教の寺院だったという説があります。
景教というのは、中国でそう呼ばれた東方基督教の一派でした。
つまり、広隆寺というのはもともと仏教の寺ではなく、キリスト教の寺院だったというのです。
この説を最初に唱えたのは、東京文理科大学(現筑波大学)や早稲田大学の教授だった故佐伯好郎博士で、中国の景教の研究では世界的権威だった人です。
広隆寺が基督教寺院だったという説によれば、弥勒菩薩はじつはイエス・キリストだったということになります。
ちなみに、「騎馬民族征服王朝」説を発表した東京大学の故江上波夫博士は、佐伯氏の弟子に当たるそうです。
以前にどこかで書いたように、江上氏も、古代の日本に原始基督教が渡って来たということを認めていた人で、もしかしたら江上氏の説く「騎馬民族」も、じつは原始基督教をもたらした存在だと考えていたのかもしれません。
聖徳太子は、じつは隠れ景教徒だったという説があります。
下記ページに書かれているので、詳細は省きます。
http://habc123.hp.infoseek.co.jp/s-taisi.html
厩戸の皇子と呼ばれたように、馬小屋の前で生まれたという伝説や、917年に書かれた「聖徳太子伝暦」という書で、新約聖書のイエス誕生物語とそっくりの記述があるというところを見ても、更に探求する価値があるかもしれません。
それから、弘法大師空海も隠れ景教徒だったという説もあります。
空海は入唐した際に景教を学び、また潅頂(キリスト教の洗礼)を受け、「遍照金剛」という洗礼名を受けたとも言われています。
実際に潅頂も含めて、真言密教の儀礼には景教から伝わったのではないかというような要素がいろいろあって、単なるトンデモ説で済ませない信憑性があると思います。
宇佐八幡宮
次に、八幡総本宮とされる宇佐八幡宮と、全国の八幡神社です。
宇佐八幡宮の場所は、大分県宇佐市にあります。
全国4万社余りもある八幡神社の総本宮です。
八幡神というのは、一般的には、応神天皇の御神霊だとされています。
公式HPが下記URLにあります。
http://www.usajinguu.com/
八幡宮は、古くは「やはたのかみ」と呼んでいました。
前回紹介した『秦氏の研究』(大和岩雄著)によると、八幡神は朝鮮半島の祭祀に深くかかわっていて、八幡神は「秦王国の神」だとしています。
ここでいう秦王国とは、むかし九州北部(豊前)にあった、秦氏が住んでいた地域を指します。
大和氏によると、八幡神というのは、朝鮮半島にあった加羅という国から渡って来た秦氏が祀った神だということです。
ここで、「ヤハタ」のハタは秦氏のハタではないかという疑問が湧きますね。
ちなみに、この頃の日本で「からくに」と呼ばれていたのは唐のことではなく、韓国=加羅のことだったんです。
加羅は伽耶とも呼ばれますが、かつて朝鮮半島の東南端にあった小さな国でした。
じつは、天皇家の祖先も、伽耶から渡って来たという可能性がもっとも強いのではないかと、個人的には思っています。
応神天皇が万という単位の大勢の秦氏の集団を朝鮮半島から呼び寄せたというのも、天皇同じ国にいた人々であり、また天皇家と何らかのつながりがあったからこそ、呼んだのかもしれません。
そして、秦氏が応神天皇を八幡神として祀ったというのも、そのへんに理由があるのではないかと。
八幡信仰はシャーマニズム的な要素が非常に強いことで知られていますが、このことについては長くなるので、別の機会に書こうと思います。
ちなみに、旧約聖書に見られるように、古代イスラエルの信仰形態も多分にシャーマニックな部分があったと思っています。
八幡神については、イスラエルの別名であるヘブライ語の「イェフダ」が「ヤハダ」に転化したのだという説があります。
これについては、八幡信仰にイスラエル的な要素がほとんど見られないところから、たんなる語呂合わせで終わってしまっているところがあります。
もっとも、その可能性をまったく否定するものではありませんが。
鹿児島神宮
次に紹介するのが、鹿児島市隼人町にある鹿児島神宮です。
ぼくが今年8月の九州聖地巡礼で訪れたところです。
九州で行く場所を決めるときに、マップダウジングで真っ先に出たのが、ここでした。
この神社は、「大隈正八幡宮」という別名でも呼ばれていて、やっぱり八幡神社なんですね。
ところが、いろいろ複雑な事情があったようで、現在では御祭神は、天津日高彦穗穗出見尊(アマツヒコホホデミノミコト)と豐玉比賣命(トヨタマヒメノミコト)になっています。
古事記の海幸・山幸の神話に登場する山幸彦とその妃のことです。
この両神の子供が神武天皇ですから、天皇家の祖先神です。
『秦氏の研究』によると、かつてはこの地に住んでいたのは、ほとんどが秦氏系氏族だったそうです。
北九州の秦王国の一部が鹿児島に移住してきたのかもしれません。
じつはこの鹿児島県というところは、古代イスラエルの聖地エルサレムの真東にあたるところ(緯度がほとんど等しい)なのですが、そういうことを意識して秦氏系の人々が移ってきたとしたら面白いのだけど、まあそういうことはあんまりないかもしれません。
宇佐八幡宮も鹿児島神宮も、当初から祭祀を行っていたのは辛嶋氏といって、秦氏系の氏族です。
この氏族名にも「カラ(=加羅)」が含まれていますね。
伏見稲荷大社
お稲荷さんとして親しまれている稲荷神社も、八幡さまに負けないくらい多いですね。
その数は、全国で32000社ほどあるとも言われています。
分社の数からいうと、日本最大級の神社です。
その総本社が、京都の伏見稲荷大社です。
稲荷大神は秦(はたの)伊呂巨(いろこ、または伊呂具(いろぐ))によって和銅四年(711)に鎮座したと伝えられています。
つまり秦氏の創建した神社です。
伏見稲荷大社についての詳しいことは、公式HPを見てください。
http://inari.jp/
御祭神は宇迦之御霊神(ウカノミタマノカミ)で、穀物の神だとか、食物を司る神といわれます。
上代日本語で「ウケ」や「ウカ」は食物を意味する言葉でした。
伊勢神宮外宮の御祭神である豊受大神も、食物を司る神ですね。
じつは、古代ヘブライ語でも、食物を「ウケ」と言ったそうです。
これは偶然の一致でしょうか?
また、イナリの語源としては、INRI説があります。
キリストが十字架に磔にされたときに、その罪状札に書かれていた言葉が、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」を意味するラテン語(Iesus Nazarenus Rex Iudeorum)の略の「INRI」でした。
稲荷神のイナリは、この INRI が訛ったものだというのです。
ただ、これだけでは、やはり語呂合わせに終わってしまうかもしれません。
普通に考えれば、「いなり=稲+成り=イネナリ→イナリ」となったとするのが妥当でしょうね。
白山神社
白山神社も八幡神社や稲荷神社ほどではないにしても数が多く、全国で3000社ほどあると言われています。
その総本宮が、石川県白山市の白山比竎神社(しらやまひめじんじゃ)です。
御祭神は、菊理姫(白山比竎神)、伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナミ)の三神です。
この白山信仰の本拠地が白山で、この山を開山した秦澄も秦氏でした。
以来、山岳修験の霊山として知られるようになりました。
この白山信仰のもとになっているものは、朝鮮半島から伝わった山岳信仰であり、これも秦氏が日本にもたらしたものだといわれています。