大晦日に諏訪へ行ってきて、また気になり始めたのは大祝(おおほおり)の存在です。
今回は話がちょっと難しくなりますが、諏訪大社の謎を探求したい方はぜひ読んでみてください。
代々の大祝は、かつて諏訪大社で生き神様的存在とされていました。
諏訪大明神=建御名方神(タケミナカタノカミ)が自ら「諏訪明神に神体なく大祝をもって神体となす」と言われ、大祝はご神言を発するシャーマン的な存在でした。
初代の大祝は諏訪有員(ありかず)で、8歳の時に大祝に任命されました。
この諏訪氏は、系図によると建御名方神を先祖としています。
しかし大祝有員は桓武天皇の第5子だという説もありますが、確かなことはわかっていません。
阿蘇氏と金刺氏
下社の方では、金刺(かなさし)氏が代々の大祝を出していました。
九州の阿蘇氏の系図によると、この諏訪氏も金刺氏もどちらも阿蘇氏と先祖を同じくする同系の一族だということでした。
ところが近年の研究によって、阿蘇氏系図の内容に創作的部分がある可能性が出てきて、あやしくなってきました。
かなり難しくなりますが、このへんの事情に興味がある人は下記ページの『2 いわゆる「阿蘇氏系図」をめぐって』の部分を読んでみてください。
http://user1.matsumoto.ne.jp/~fukusima/yamakawa.htm
このため、上社の諏訪氏の方はどうも阿蘇氏とのつながりがない可能性が出てきました。
でも金刺氏の方は、阿蘇氏と同じく、神八井耳命(カムヤイノミミノミコト)を祖とする同系の氏族とされています。
阿蘇氏は九州・肥後国の氏族で、阿蘇神社の大宮司も世襲しています。
神八井耳命は神武天皇の皇子で、『古事記』『日本書紀』等にも登場する皇族で、あの多氏も神八井耳命の子孫とされています。
多氏といえば秦氏と大いに関係があり、秦氏と同じ朝鮮半島から渡来してきたのではないかと私は考えています。
神八井耳命の正体は?
いま手元に『日本の中のユダヤ』(川守田英二著、たま出版)という本があります。
残念ながら、この本は絶版のようです。
著者の川守田氏は、青森県の「ナニャドヤラ」などの民謡の意味不明な歌詞が、古代ヘブライ語で解釈できるという説を出した人です。
1891年に岩手県で生まれ、米国に渡って神学博士になった人です。
ナニャドヤラ=ヘブライ語説は、古代日本とイスラエルの関係を研究するユダヤ人のラビ・マービン・トケイヤー氏やオリエント学者の三笠宮殿下からも支持されていません。
面白い研究ではあるけれど、ユダヤ人が聞いてヘブライ語だと思えないというのだから、形勢不利ですね。
ただ、この人の日本語とヘブライ語の共通点に関する研究には、無視できない部分もあります。
この本で川守田氏は、神八井耳命はヘブライ語の「カンヤヰ(=エホバの祭司)」と解釈できると言っています。
ここで「カン(kahn)」は一般にコーヘン、コーエンなどと発音し、現在でもCohane、Cohen、Kohan、Kan、Kaganなどという姓として世界中のユダヤ人の名前に見られます。
コーヘンといえば、先日紹介した『大使が書いた日本人とユダヤ人』の著者である駐日イスラエル大使のエリ・コーヘン氏もそうですね。
実はこの苗字がつくユダヤ人は、祭司を司る支族だったのです。
聖書に親しんでいる人ならば、モーセの兄のアロンの子孫だといえばわかるかもしれません。
私は5年間ほどイスラエル人たちと仕事をしてきましたが、現在でもユダヤ人に非常に多い名前です。
「ヤヰ(ヤウィ)」の方はヤハウェ(yahweh)、つまりユダヤ教の神の名ですが、調べてみるとyahwi(ヤウィ)という派生語もあるようなんですね。
神武天皇の皇子の名前が「ヤハウェの祭司」だとしたら大変なことですが、これだけだったら単なるゴロ合わせで片付けられてしまっても仕方ないかもしれません。
ただ気になるのは、神八井耳命は本来は皇位を継承する資格があったのに、自ら祭祀を司る役割を選んだ人だということです。
つまりユダヤ教のコーヘンと同じ役割をもっていることになります。
モーセがイスラエルの民を導き、兄のアロンの子孫は祭祀を司るようになりました。
これに対して、神八井耳は天皇にならずに弟を助けて祭祀を司り、弟の神渟名川耳が天皇として即位しました。
なんだか、モーセと兄のアロンの関係に似ていませんか?
まあ、神武天皇の存在自体が架空の天皇だったとか言われているのですから、神八井耳命も実在した人かどうかはわかりません。
古事記の編纂に秦氏が加わっていたという説がありますが(大和岩雄著『秦氏の研究』)、あのあたりの人々が「創作した話」だったら、それはそれで面白いのですが。
そして、その子孫を名乗る多氏とか金刺氏というのも、アヤシイ存在に思えてきます。
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誰がアロンの子孫か?
実はこのコーヘン(コハニム)の人々は特別なDNAを父系で受け継いでいて、誰でも調べれば、アロンの子孫かどうかわかるんです。
それについては、以前の記事で書いています。↓
- [探求]あなたの先祖はどこから来た?(「『Family Tree DNA』によるDNA遺伝子の調査」の部分)
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20060716/dna
ところで、日本の天皇制などの研究で知られるユダヤ人ベン・アミー・シロニー教授のインタビューをネット上で見つけました。
この人は古代日本とイスラエルの関係について肯定してはいないんですが、否定もしていないようです。
ここで、冗談交じりにこんなことを言っています。↓
以前、おもしろい調査がありました。世界中のコーヘン家系の血を集めてDNA鑑定したら、DNAの中に同じ要素が見つかったというのです。みんな、モーセのお兄さんであるアロンからつながっているわけです。ひょっとしたら、日本の皇室もコーヘンかもしれませんね。もし日猶同祖論が本当であれば、コーヘンの一部が日本に来て、皇室を作った。ですから神武天皇は多分コーヘンだったんでしょう(笑)。
(『「ミルトス友の会」第3回集い』のベン・アミー・シロニー教授の質疑応答より)
http://www.myrtos.co.jp/index.html?url=http://www.myrtos.co.jp/tomonokai/051210.html
まあ、完全にジョークで言っているのかもしれませんが。
本当に天皇家の方々がこういう調査に協力していただければ面白いのですが、無理でしょうね。
せめて秦氏の子孫の方々がやってもらえるといいのだけど、たとえ秦氏が古代イスラエルの民だったとしても、コハニムの家系とは限りませんね。
上記の記事で紹介しているDNA調査では、少なくともユダヤ人の子孫かどうかはわかるんです。
アメノコヤネはどうか?
神八井耳命以外に、天児屋命(アメノコヤネノミコト)という神が日本神話に登場します。
この神の名にある「コヤネ」が、ヘブライ語の「コハネ(コーヘン)」から来ているという説もあります。
『大和民族はユダヤ人だった』などの著書で知られる、故ヨセフ・アイデルバーグ氏が、著書『日本書紀と日本語のユダヤ起源』で、この説を唱えています。
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天児屋命は、天照大神が岩戸の中に隠れたときに、祝詞を唱えた神です。
「コヤネ=コハネ」説が、単なる語呂合わせとして退けてしまうことをためらう部分があるとすれば、この神が、あの神道の祭祀一族である中臣氏の祖神とされているからです。
「コハネ=祭祀を司る」という符合があるのは、単なる偶然なのか。
そうなると、中臣氏もそこから別れた藤原氏も、古代イスラエルの民の子孫となってしまいますが、これも古事記の編纂者(秦氏?)が「仕組んだ」ものだという可能性も考えなければならないかも。
ところで、この『日本書紀と日本語のユダヤ起源』という本によると、ヘブライ語で「コヘン(cohen)」と書くと、日本語のカタカナで「コハノ」と書いたのとソックリになるんです。
普通に考えればカタカナの起源は万葉仮名だけど、それが作られる過程で、もしかしたらヘブライ文字も参考にしたのだろうか、などと思ってしまいます。
- 【対談】日本人こそは“失われたイスラエル10支族だ”と主張するユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーグ(下の方に対照表がある)
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb412.html
桓武(かんむ)天皇と諏訪
諏訪の話に戻りますが、上社の大祝家である諏訪氏の出自について、もし本当に桓武天皇の末裔だとしたら、どうでしょうか。
桓武天皇といえば平安京を作った天皇ですが、あの秦氏とも大いに関係がありました。
あまり知られていないことですが、秦氏という渡来支族は平安京の造営に大いに貢献したんですね。
秦氏の財力と技術力がなければ、平安京は実現しなかったかもしれません。
桓武天皇といえば、現在の天皇陛下が平成13年12月のお誕生日に際しての会見で、こう語られました。
私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。
また、平安京の造営長官であった藤原小黒麻呂という人物がいますが、その娘は桓武天皇の夫人となり、また小黒麻呂の妻は秦氏出身でした。
このように桓武天皇と藤原氏・秦氏は深い関係があったのです。
平安京といえば、古代イスラエル王国の首都だったエルサレムも平安京と同じ意味をもっていました。
「Yerushalayim」の「yeru」は古代セム語で「都市」の意味があり、「shalayim」は後にヘブライ語の「shalom」と転化しましたが、セム系諸族の神名から転じて「平安」を意味するようになったのです。
つまり、イェル・シャライム(エルサレム)は「平安の都」という意味があるのです。
平安京の名前は、この都の造営に大いにかかわりがあった秦氏が名づけたものなのでしょうか。
桓武天皇と諏訪との関連でいうと、あの御柱祭のこともあります。
諏訪大明神畫詞(すわだいみょうじんえことば)という古文書によると、1200年前の延暦20年の蝦夷征討の時の戦功に報いて、桓武天皇が延暦23(804)年に、御柱祭の費用を信濃の国全体で負担するようにと国司に命じたとされています。
これに先立って、桓武天皇が坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して、その蝦夷征伐の途中で信濃の諏訪神社に寄って戦勝を祈願しました。
そして奥羽地方に東征に出かけて、帰京してから天皇に報告し、諏訪の神に感謝しての天皇の命令だったんですね。
このような桓武天皇と諏訪とのつながりを考えると、その皇子が諏訪の大祝になったというのも、あながち根拠がない話ともいえないかもしれません。
ちょっと今回はマニアックすぎて難しかったかな…。
諏訪大社というのは本当に謎が多いところで、調べれば調べるほどいろいろと出てきて、面白いですよ。