あいかわらず多忙のため、どんどん本を読んでいっても、それをアウトプットする暇がない。
紹介すべき本がどんどんたまっていってしまう。
これもかなり前に読んだものだが、非常に重要な内容をもつ本なので紹介する。
『謎の出雲帝国−怨念の日本原住民氏・天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り』
『謎の出雲帝国−怨念の日本原住民氏・天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り』、吉田大洋著、徳間書店
1980年に、古代史の研究家である吉田大洋氏が書いた問題作だ。
既に絶版となっているが、Amazonのユーズドストアを見ると、定価(\980)の3倍くらいの値段がついている。
私の場合、幸運にも2倍弱の値段でAmazonから古書を購入することができたのだが。
謎の出雲帝国―天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り 怨念の日本原住
- 作者: 吉田大洋
- 出版社/メーカー: 徳間書店
- 発売日: 1980/05
- メディア: 単行本
- 購入: 6人 クリック: 44回
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この本の副題を見ただけで、ある程度の本の「傾向」がわかるだろう。
裏表紙には、こうある。
記紀は、勝者=天孫族が日本占領の”正当性”を権威づける記録だった。
が、シュメール語として詠むと、血なまぐさい侵略の事実が、次々と明らかにされる。
敗者=出雲神族は、その虐殺と屈辱の記憶を代々語りついできた−。
いま、歴史の真相が開かれようとしている。
上記で「シュメール語」というあたりで、すでに引いてしまった人もいるかもしれない。
だが、この記事を読むのをやめる前に、もうちょっと我慢して読んでいただきたい。
古事記と日本書紀がシュメール語で書かれたなどという著者の主張は、私でも容易に受け入れられるものではない。
シュメール語を解する人々が古代の日本を訪れたことを完全に否定するものではない。
だが、シュメール語に当てはめられた言葉の意味というのが、あまりにも懇意的であるように思えるのだ。
これだったら、たとえば「源氏物語はヘブライ語で書かれた」という主張だって、何だって「アリ」になってしまうのではないか。
そのようなトンデモな主張を取り入れて書かれたこの本だが、すべてがこの調子で書かれているというわけでもない。
この本の骨子となっている情報ソースこそが、私が無視できない重要なものだと考えているものなのだ。
それは、大国主命の直径の子孫である富氏が一子相伝で語り継がれてきた、出雲神族と日本古代史に関する驚くべき伝承だった。
富氏の伝承に信憑性はあるか?
前述の出雲神族の末裔と主張するのは、元サンケイ新聞編集局次長の富當雄(とみまさお)さんという方だ(既に故人)。
富氏は16歳の時以来、父上から出雲神族の歴史を聞かされてきた。
たとえ兄弟たりとも他言無用として、4500年もの間、一子相伝の秘密として語り継がれてきたものだ。
富氏が語る日本古代史の重要な部分をピックアップして、以下に紹介する。
富家の伝承が主だが、一部は吉田氏説も含まれている。
- 大国主命の祖先であり出雲神族の真の祖神である出雲の大神とは、クナトノ大神(=熊野大神=道祖神=サエノカミ)だった。
- 「われわれは龍蛇族である」(富氏)
- スサノオは朝鮮から蹉跌を求めて須佐の港に渡来し、出雲神族を敗り、婚姻により習合した。
- 出雲王朝はかつては北九州から新潟までを領有していた。
- クナトノ大神は岐(フナト)神、来名戸之(クナトノ)、祖神(サヘノカミ)などとも呼ばれ、57代にも渡って何人もいた。
- 天照大神は富家の伝承にはいない。宮中のアマテラス祭祀は平安時代以降に成立した。
- 大国主命も固有名ではなく代名詞であり、17代続いた。神武天皇も一人ではない(?)。
- タテミナカタは天孫族に服従せず、越へ後退し、母方(越のヌナカワ姫)の勢力をバックに信州へ行き、第2出雲王朝を築いた。
- タケミカヅチは富氏の伝承にはない。多氏一族が奉じた(=タテカシマノ命、那加国造祖)。鹿島神宮は社殿内陣の構造が出雲大社と似ていて、クナトノ大神も摂社にある。宮下文書では、タケミナカタはミカヅチとフツヌシの兄となっている。
- 藤原氏は富家伝承では帰化人。出雲大社社家の祖神だった天ノコヤネに続いてタケミカヅチを祖神とした。中臣氏は東国で鹿島神系と婚姻した。
- 物部氏は、その祖ウマシマジが出雲神族のトミヤ姫を母とする親出雲族で、後に(崇神天皇前後)親天孫族に転向した。島根に侵略基地を置き、出雲へ侵攻した。
- 天皇家で、神武系と崇神系は血族的断絶はないが、内紛によって別の系統から天皇が出た。
- 渡来した天ノヒボコ族は吉備に移り、スサノオ系のスサ族と同化し始め、天孫族はヒボコ族と政略結婚を進めた。
- 神武系の天皇家は武烈天皇で血統が絶え、大伴氏・物部氏・ヒボコ族らは中立に近い出雲神族から、古志方面の主張だった継体天皇を立てた。継体系は続く安閑→宣化で王朝が絶えた。
- 出雲族に戦いの歴史はなかった。
- 天孫族は伊勢に攻め込み、王の伊勢津彦は建御名方富命が統治する信濃へ逃れた。
- 天孫族の東国制覇はクナトノ神の先導によってなされた。
- 出雲族は北方から来た(BC2000年頃?)。ベーリング海を渡り、北海道、東北、出雲へ行った。
『謎の出雲帝国』以外の情報
私はまだ読んでいないが、吉田大洋氏の別の本がある。
『謎の弁才天女―福神の仮面をかぶった呪詛の神』(吉田大洋著、徳間書店)
この本によれば、富當雄(とみ まさお)さんが亡くなる数日前、吉田大洋氏に遺言を残したという。
その内容とは、富氏の大祖先はクナトの大首長(大神)だが、もう一つ隠された女首長(女神)にアラハバキがいた。
そして、体制側によってクナトとアラハバキが抹殺されかけたときに、クナトは地蔵に、アラハバキは弁才天へと変化したというものだ。
謎の弁才天女―福神の仮面をかぶった呪詛の神 (トクマブックス)
- 作者: 吉田大洋
- 出版社/メーカー: 徳間書店
- 発売日: 1989/08
- メディア: 新書
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本山博先生が説く世界と日本の歴史の真実
本山博先生は、超常的方法によって日本人の起源と日本古代史に関する情報を得ている。
そのいくつかの著書で書かれたことをまとめると、以下のようになる。
(【】内は百瀬による注)
- 4〜5万年前にアジア大陸から移住してきた古モンゴロイドであるアイヌ族(=縄文人)は、狩猟・採集をして共同生活をしていた。
- 3,500〜4,000年くらい前に、地球の気温が下がって北方のシベリアや満州の方が寒くなってきたので、人々が南下して満州や朝鮮の方へ移ってきて、混血が起きながら新しい民族ができてきた。その頃の日本の人口は20万人ぐらいだった。百済や(朝鮮半島の)南の方で生きていた人たちは騎馬民族たちによって南の方へ押しやられて日本へ来るようになった。
- 3〜4千年前に、大陸の満州・沿海州から来たと思われる新モンゴロイドの出雲系民族は、先住のアイヌ民族と争い、和合しつつ、日本全国を統合し、彼らの民族神である大国主と素盞嗚命を最高神として祀る神社を建て、御神座を西向きに置いて拝み、アイヌの神々を統合した。
- ヤマタノオロチ退治の神話は、出雲族がアイヌの部族とその部族神を統合する争いの神話であろう。
- 3〜4千年前に移住してきた出雲系の楯縫(多々奴比、たたぬい)族が丹波の篠山に来て、鉄器で山を焼いたり、湖の水を下の川に流して緑豊かな平野(東西約20キロ、南北約5キロ)に変えてそこに定住し、農耕共同体として平和な生活を営み、多々奴比神社(河内多々奴比神社、兵庫県多紀郡西紀町下など)を建て、出雲系の民族神である大国主と素盞嗚命を祀った。【富氏の伝承では、スサノオは出雲族ではなかった。】
- 2、000〜2,500年前に、新モンゴロイドの大和(天孫)系民族が中国南部または朝鮮半島の西側、百済を経て九州に移住してきた。彼らは出雲系より優れた稲作を行い、優れた鉄器をもってきた。
- 出雲族が丹波篠山に移り住んできた500〜千年後に、大和系の物部氏が丹波の篠山に移り住んできて、出雲系民族との争いが続いた。現在でも、篠山の西半分は出雲系の、東半分は大和系の民族の子孫が住み、互いに反目している。その北半分は出雲系の、南半分は大和系の神々を祀っている。
- 大和民族はやがて先住のアイヌ・出雲民族を数百年のうちに統合して、民族の神である天照大神を最高神として、アイヌ・出雲系の神々をその下に統合した。
- 和人族たちは自分たちの正当性を示すために『古事記』や『日本書紀』を書いた【ユダヤ教徒または原始キリスト教徒だった秦氏が古事記の編纂に加わっていて、聖書を真似て物語を作った?】。和人の出身地は中国南部【福建省や広東省のあたり?】または朝鮮南部【西側?百済?】のあたりだった。
- 応神天皇の頃(在位270〜320年)に、ユダヤの一族がだんだんと日本へ流れてきた【秦氏のことか?】。
【参考文献】『霊的成長と悟り』、本山博、宗教心理出版
出雲神族の伝承は真実か?
次に、『謎の出雲帝国』の冒頭にある「出雲神族年表」から、一部を抜粋する。
- BC3500年頃:前記縄文時代。アイヌ、サンカ渡来。
- BC2500年頃:出雲神族渡来(後期縄文時代)
- BC1500年頃:スサノオ出雲へ侵攻。
- BC1000年頃:天ノホヒ出雲へ侵攻。
- BC600〜BC700年頃:神武東征、トミノナガスネ彦(出雲神族)敗れる。
上記のうち、出雲神族が渡来したという時期が、前述の本山先生の主張とほぼ同期しているところが興味深い。出雲族以前に日本に渡ってきていたのがアイヌだったというのも、年代にかなり開きがあるが、共通している。このように、本山先生の歴史の記述と出雲族についての記述を富家の伝承と比べると、基本的に矛盾しないことがわかる。
ただひとつ、富家の伝承では、スサノオはもともと出雲族ではなかったというが、本山先生はスサノオも出雲族の祖神であるようなニュアンスで書かれている。
だが、出雲族とスサ族が婚姻によってつながっていったとすれば、大国主もスサノオも「祖神」として祀ったということに矛盾はないかもしれないが。
果たして、富家に伝わる出雲神族の伝承は真実のものなのだろうか。
権力によって形成された歴史書の内容と、富家に伝わるような伝承とは、その伝播方法や性質において、異なる部分がある。
前者、つまり記紀のような歴史書の内容は、そのときの権力にとって都合が悪い部分は削除改竄され、都合の良いところは捏造されていることが多いだろう。
だが、富家の伝承のようなものは、基本的にその家の子孫だけに伝えるためのものであり、上記のような改竄の必要はなかった。
たとえば出雲神族が天孫族らに侵略され戦いに敗れたとしても、ありのままに伝えても別に差し支えないもの、というか、侵略者に対する恨みの思いを子々孫々伝えるためには、ありのままに書かなければならなかっただろう(子孫に憎悪の念を忘れさせないために、多少の誇張はあるかもしれないが)。
「出雲族には戦いの歴史がなかった」というところなども、そのまま受け取るのがむずかしい部分だろう。
上記のようなことを前提として、私は富家の伝承にある程度の「真実の匂い」を感じるのだ。
ただ、だからといって、その伝承のすべてが真実に沿ったものだとすることもできない。
出雲神族たちが知らないことで、二次的情報として伝わってきたことも含まれているかもしれない。
例えば、国譲りによって諏訪へ逃げ延びた(?)建御名方神のことは、出雲に残った富家の子孫たちは、そのようすを直接に見たわけではないだろう。
自分的には、この本を読んで、「タケミナカタ神=出雲の神」という認識を新たにした。
上社の大祝家である諏訪氏は、桓武天皇を祖とするという説もあるが、やはり出雲神族と考えた方が、いろいろなことが説明がつく。
富家伝承のどこまでが真実で、どこまでがそうでないかについては、更なる探求を続けることにする。
『謎の出雲帝国』は、果たしてトンデモな本なのか、それともとんでもなく真実に近づいている部分があるのだろうか。