探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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川越聖地巡礼2回目


昨日6/30(土)夜に、明日はどこかへ聖地巡礼すべきかと後ろの存在に伺ってみる。
ダウジングでは、Yesの答え。
そして地図帳を取り出し、マップダウジングで出たところは、下記の通り。


というわけで、6/17(日)に続く川越聖地巡礼第2弾ということになった。
ちなみに、前回の巡礼記は下記のページで書いている。


前回は家族3人での巡礼だったが、また近いうちに行かされるのではないかという予感がしていた。
ひとつには、由緒ありそうな熊野神社の前を通ったのに、お参りしなかったからということもある。
すると、案の定というか、熊野神社が今日の巡礼地として含まれていた。


昨日のダウジングで最初に出たところは、意外な場所だった。
小江戸・本川越の観光ポイントから、ちょっと離れた場所にあるのだ。
JRの川越駅から南へ少し歩いたところ。
その場所を探してみると、神社は雀ノ森氷川(すずめのもりひかわ)神社しかない。
3番目と4番目の場所は、なかなか決まらなかった。
最初は寺院かとも思ったが、やり直してみると、結局は小さな神社だった。
4番目の妙義神社も、観光スポットから北へ外れたところにある。
というわけで、今日はけっこう歩かされることになるので、家族には声をかけずに単独行ということにした。


ちなみに、私が聖地巡礼するところに寺院は少ないが、これは一つには、後ろについているのが「神道の人(神官)」だからだということもあるだろう。
だがそれは、神道だから仏教の聖地を嫌うというような了見の狭さから来ているのでは、もちろんないだろう。
理由の一つとして考えられるのは、「墓地のケガレ」を忌み嫌ってのことかもしれない。
それを言ってしまえば、川越あたりは「墓地だらけ」なのだが、いままで行かされなかったのは、そういう理由もあったのだろうか。
そういえば、鎌倉とかもまだ一度も巡礼したことがないし。


今回は、熊野神社を除いては、小さな神社ばかりだ。
祈りの目的は、「地震の沈静」と「民族のカルマ解消」といういつものパターン。

川越へ

2007/07/01(日)
花小金井駅で「小江戸川越フリークーポン」を購入。
今日は急行1本で行くことにした。
9:00頃発の本川越行きに乗って、33分で着いてしまった。
本川越駅からJR・東武線の川越駅は、500mほど離れている。
最初の目的地、雀ノ森氷川神社は、その川越駅から更に南へ500mほど歩いたところにある。
あらかじめプリントしたInfoseek地図によると、川越駅の前を通らずに最短距離を行くと、800mほどになる。
今日の天気予報では、降水確率は20%ほど。
曇りの中を、歩き続ける。

雀ノ森氷川神社(すずめのもりひかわじんじゃ)

10:00頃に、雀ノ森氷川神社に到着。
鳥居の脇に、由緒書がある。
人皇10代(11代か)末、太郎俊任公が謀反を起こし、東下りしてこの地に隠遁していたが、追っ手の追撃に逃げ出し行方知れずとなるが、ある翁の夢枕に立ち、都落ちの経緯を話し、翁は小祠を建ててこれを祀った。
その後、日本武尊蝦夷討伐の折に当地に野営し、尊は俊任公の罪を免じ社地を与えた。
以来三社大権現として崇められ、代々その翁の家である木村家で祀られていた。
その後、須佐之男命大己貴命日本武尊、末の太郎公などを合祀して金毘羅三社大権現とし、天慶二年東国の金神の総社となった。
戦国時代には焼野原となり社地が変わったりしたが、永正年中現在地に鎮座し雀ノ森氷川神社と改称した。


この手の伝承はどこまで史実かわからないが、日本武尊の時代の創建というのは、ずっと後の時代になってからの創作だろう。
いずれにしても、氷川神社スサノオという単純な図式では済まない複雑な由緒があるようだ。
この神社には、天孫族出雲族、スサ族(?)といった色々な民族の神々が祀られてきたことになる。
まあ、たしかに「民族のカルマ」の祈りをするには最適な(?)ところかもしれない。



緑で囲まれた境内の中央に小さな社がある。
1日ということで、一日参りをする人々が目に付く。
いつもの挨拶の後で、地震沈静の祈りと民族のカルマ解消の祈り。
本殿の両脇には、境内社の榛名神社と稲荷神社がある。
名神社は、群馬県高崎市にある式内社だが、そこから勧請されたのか。
ネットで調べると、赤城山妙義山と共に上毛三山の一つとされる榛名山の神を祀る神社だという。
鳥居の脇にもう一つ鳥居があり、境内社として浅間神社がある。
鳥居の奥には富士山を模した富士塚がある。
祭神はもちろん木花咲耶姫コノハナサクヤヒメ)さまだろう。


氷川神社といえば、かつて武蔵国だった埼玉県や東京都西部にはたくさんの分社がある。
東京と埼玉と合わせて200社ほどもあり、他の都道府県には数社しかないのだという。
氷川神社は、大宮の総本社をはじめとして、御祭神スサノオ須佐之男命)だ。
現在の埼玉県にあたる武蔵国一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族とされている。
だが、スサノオを御祭神としているところから見ても、本来の「出雲族」ではないのだろう。


『謎の出雲帝国−怨念の日本原住民氏・天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り 』に登場する故・富當雄(とみまさお)氏を思い出していただきたい。
富家に伝えられた出雲神族の伝承が正しいとすれば、スサノオを祖神とする「スサ族」は出雲神族と敵対する存在だった。
そして、スサノオ出雲族にとって侵略者だったのだという。
富家の伝承によれば、大和を天孫族に譲った出雲族は、いまの関東や東北など各地に分散させられた。
そのため、東国には出雲系の国造や神社が多いのだという。
だが、氷川神社熊野神社など、スサノオを祀る神社が多いということは、やはりスサ族が強かったのではないか。

謎の出雲帝国―天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り 怨念の日本原住

謎の出雲帝国―天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り 怨念の日本原住


「出雲がわかれば古代史がわかる」といえるのではないかと思う。
裏を返せば、それだけ今の日本古代史には、出雲族の捉え方に「ブレ」があるということを言いたいのだ。
そして、そのブレがある限り、真理へ至る道を指し示す羅針盤は大幅に狂ってしまう。



境内社の雀ノ森富士浅間神社


【参考サイト】

熊野神社

雀ノ森氷川神社を出て本川越駅まで戻り、そこから更に北へ500mほど歩いたところに、熊野神社がある。
川越駅前から例の小江戸巡回バスに乗っても良かったのだが、かなり遠回りするので、歩いた方が早いのだ。
川越観光のメインストリートである中央通り沿いにあることもあって、人気が高いようだ。
大正浪漫夢通りに面した鳥居の前には、「海運・縁結び 川越熊野神社」などの看板が立つ。
若い女性の姿も目立ち、賑わっている様子だ。



熊野神社の鳥居前】


社伝によると、天正18年(1590年)に紀州熊野より勧請されたという。
祭神は、伊弉諾尊イザナギノミコト)、事解之男命(コトサカノヲノミコト)、速玉之男命(ハヤタマノヲノミコト)の熊野大神三神。
熊野神社総本社である熊野大社にしても、紀州熊野三山にしても、本来の主祭神スサノオであるといわれている。
下記の熊野神社公式ページを見ると、「(財)日本サッカー協会公認」とある。
JFA日本サッカー協会)のシンボルマークは、熊野信仰にかかわりがある八咫烏(ヤタガラス)であるために、JFA公認の「勝守」を扱っているのだ。
ヤタガラスというのは、古事記によると、神武東征の際に、タカミムスビ神によって神武天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたとされる三本足のカラスだ。
なぜサッカーとヤタガラスなのか?
足が2本よりも多い3本だと、サッカーに強いから?^^;
Wikipediaの「八咫烏」の項には、ちゃんと説明があった。
それによれば、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助に敬意を表して、その出身地である和歌山県那智勝浦町にある熊野大社のシンボル八咫烏をデザインしたのだという。



ガラス張りの本殿の前で、お祈り。
境内には、いくつか境内社がある。
大鷲(おおわし)神社は、御祭神が天之鳥船命(アメノトリフネノミコト)。
秋葉神社は、御祭神が火ぶせの神、火之迦具土神(ヒノカグツチノミコト)。
加佑稲荷神社の御祭神は、倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)。
そして、銭洗弁財天厳島神社(ぜにあらいべんざいてんいつくしまじんじゃ)。
銭洗弁天さまの池があり、人々が池でお金を洗っている。
私はそのようなことには興味がなく、ただお祈りするだけ。
由緒ある神社のお参りは大変だ。
いろんな神さまが祀られていて、この神さまはお参りしなくても良いだろうというわけにもいかない。
それだけ、いろんな神々にご縁があるのだろう。



境内社の銭洗い弁天の池】


社務所でおみくじを引くと、12番の「大吉」が出た。
前回の川越巡礼では、川越大師で凶を引いたので、リベンジというところか。
今年正月の京都聖地巡礼のときにも、スサノオさまをお祀りしている八坂神社で大吉が出た。
同じ日に下御霊神社で凶も引いた。
今年はなぜか大吉も凶も多い。

鴉山(からすやま、烏山)稲荷神社

次の巡礼地は、鴉山稲荷神社だ。
熊野神社を出て、中央通の仲町交差点から西へ3分ほど歩いたところにある。
Googleマップにも社名が見えないが、仲町自治会館の向かいにある。
境内では、親子が野球をやっている。
社は改築工事中のようだ。
本殿の周囲に足場が組まれている。
工事中のため、写真は載せないことにした。


地震沈静、民族のカルマ解消とともに、改修工事が恙(つつが)なく終了しますようにとも祈る。
今日この小さな神社に来させられたのは、このためなのだろうか。
事前にネットで検索しても、この神社に関する情報はほとんど得られなかった。
まあ、稲荷神社だから御祭神はわかっているが。
江戸時代には稲荷信仰が盛んで、城下町だった川越も、稲荷神社が多かったようだ。
現在でも川越には18社ほどある。

妙義(みょうぎ)神社

鴉山稲荷神社を出て、中央通を北へ向かって歩く。
1Kmほど歩いたところに、妙義神社がある。
前日のダウジングで最後に出たのが、この妙義神社だった。
この神社も、ネット上で情報がほとんどなく、御祭神もわからない。
最初に地図帳でこのあたりでペンデュラムが振れたとき、神明町とあるので、目的地は神明神社だろうと思っていた。
だが、更に調べてみると、地図帳に載っていないところに妙義神社があった。
確認のため再度ダウジングしてみても、やはり神明神社ではなく妙義神社へ行くようにとのことだった。


中央通り沿いに歩いていくと、小さな神明神社があった。
ダウジングで指定された神社より先に他の神社へ行くと怒られるかもしれないが、家の神棚にお祀りしている神さま(天照大神)の前を素通りするわけにもいかないので、後でお参りすることに。
曲がるところを間違えて、行き過ぎてしまう。
まったくの住宅地にある細い道を歩いて、妙義神社を見つける。
予想通りの小さな神社。
拝殿には「妙義大神」とだけある。



お祈りした後で、奥に祠のようなものがあるので行ってみると、何体かの石仏があり、「輝善院の石佛について」と題した由緒書きがある。
それによると、文化七年(1810)に江戸幕府が編纂した新編武蔵国風土記稿では「東明寺村に長久山照善院と呼ぶ天台宗の寺があり、その境内には大日堂と妙義社がある」と記されているという。
その後、明治年間の火災によって寺院は焼失したが、妙義神社は再建された。
そこに収められた石仏の前でも祈る。



妙義神社の境内にある石沸と由緒書き】


ネット上のわずかな情報によれば、どうも太田道灌が守り神として信仰した神社であるらしい。
妙義神社といえば、群馬県甘楽郡妙義町妙義神社が有名だ。
妙義山の麓に鎮座するこの神社は、日本武尊ヤマトタケルノミコト)、豊受大神(トヨウケノオオカミ)、菅原道真公を御祭神としている。
変わった組み合わせだ。


妙義神社の分社はあまりないようだが、東京都豊島区駒込妙義神社がある。
その御祭神は、日本武尊高皇産霊神タカミムスビノカミ)他二柱とある。
駒込妙義神社の由緒によると、太田道灌が出陣に際し文明三年(1471年)より当社に戦勝を祈願し、その都度勝利を収めたという。

太田道灌との関係は?

更に調べていくと、城館跡探訪記というブログで「太田道灌屋敷」という記事を見つけた。↓


上記ブログ記事にもあるように、この妙義神社は元は志多町8番地にあったが、昭和40年代前半に現在の地である宮元町32番地2に移されたという。
そして、太田道灌の屋敷は、その近くの、現在六塚稲荷神社があるあたりにあったという。


太田道灌といえば、いまから500年以上前の室町時代の武将だ。
江戸城を築城した武将としても知られる。
その道灌は、川越城を築いた人物としても知られる。
川越城は、扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)が長禄元年(1457)に家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城したものだ。
その川越城は、今年平成19年に550周年を迎え、「川越城築城550年」のポスターがあちこちに貼られている。
これを記念して、さまざまなイベントも予定されている。
11月3日には式典やパレードがあるという。
詳しくは下記ページを。


太田道灌の川越の屋敷というのは、あまり情報がない。
川越城を築いた人だから、川越に屋敷があってもおかしくはない。
川越市役所前には、道灌の公像が立っているという。


なぜ川越巡礼なのか。
川越城築城550周年、太田道灌ヤマトタケル尊…。
調べていくうちに、うっすらとだが、わかってきたような気がする。
どうも、ここの妙義神社も、ヤマトタケル尊が御祭神の一柱であるようだ。
雀ノ森氷川神社日本武尊の伝承があるようだが。
家でヤマトタケルさまとオトタチバナヒメ弟橘媛)さまをお祀りしているから、そうと事前に知っていれば、お礼の祈りもしたのに。
太田道灌との個人的なつながりがイマイチよくわからないが、550周年という記念すべき年に川越を祈って周るという役を負わされているということは、何かしらのご縁があるのかもしれない。

神明神社

さきほど通った神明神社へ戻る。
神明神社だから神明町にあるものとばかり思っていたが、実際は宮元町にあるようだ。
交通量の多い通りに面して鎮座している。
狭い境内には、木々がほとんどない。
入口には「国威宣揚」の石碑が立つ。
なるほど、戦時中には、みんな神明社にお参りさせられたのだろう。



ネット上では、この神社に関する情報はほとんど得られなかった。
祭神は、もちろん天照大神(アマテラスオオミカミ)だろう。
神明神社皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などの社名をもつ、アマテラスオオミカミを御祭神としている神社は、日本に5000社あると言われている。
これを書いている今日、『アマテラスの誕生』という本を読み終えたばかりなので、思うところが多い。


1962年に筑紫申真によって書かれたこの本では、「皇祖神と伊勢神宮は天武・持統によって創出された」と主張する。
この神はもともと天皇家の祖神ではなかったし、また女神でもなかったというのは、たしかにそうだろうと思う。
アマテラスは創作された神だともいわれるが、少なくともその元となった太陽神は存在するだろうから、そう思って拝めば良いと思う。
上記の本は、講談社学術文庫から出ている貴重な本で、初版が売れたら絶版になってしまうかもしれない。

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)


道路から丸見えなので、神さまがちょっと可哀想に思えてくる。
子供の遊び場も兼ねているからということもあるのだろうが、もうちょっと何とかならないものか。
前がちょうどバス停で、祈っているところを停まったバスの上から見られてしまうのだ。

所沢へ

今日の巡礼は終った。
時間はまだ13:00前。
家内に電話をかけて、所沢で買い物する用事はないかというと、行きたいという。
14:00に所沢で待ち合わせることに。
菓子屋横丁まで歩いて、黒砂糖を塗った麩菓子などを土産に買う。
所沢で買い物をした後で、ゲーセンへ。
UFOキャッチャーの収穫は、家内が好きなマリオのフィギュア、ゲキレンジャーのボクシンググラブ、電動の巨大シャボン玉マシン、eyc。
今日はけっこう金を使ってしまった。
所沢のゲーセンよりも、モリタウンやダイアモンドシティ・ミューにある家族向けのゲーセンの方が取りやすい。
もっとも、所沢も新宿や池袋に比べたらまだ取れる方だと思うが。



【参考サイト】


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