探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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旧盆・夏の終わり・創造主


今日は旧暦7月15日の旧盆。
しかも満月でもあります(旧暦15日が満月と重なるのは当たり前か)。
また、諏訪大社では御射山祭(みさやまさい)といって、諏訪大社にとって非常に重要なお祭の日でもありました。
明日は旧盆の送り火です。


バリ島では、ご先祖さまたちが地上に戻るのを迎えるお盆のようなお祭があって、盆の送り火にあたるのが、クニンガンという祭日です。
ぼくはなぜか、そのクニンガンの日に生まれているんですね。
210日を1年とする、バリやジャワで使われるウクゥ暦によるものです。


今日は仕事を早めに終えて、神さま仏さまに供えるお供物を買って帰りました。
神棚(天照大神諏訪大明神、弁財天)、ヤマトタケル尊と弟橘媛七福神ヒヌカン(火の神)、仏壇と、すべてお供物をお供えします。
イエスさま、マリアさま、聖ベルナデッタ、アンマなどもお祀りして(?)いますが、お供物は供えません。
家内がいないと、ヒヌカンもお祀りしないといけないし、大変なんですね。
ヒヌカンへは、毎月旧暦1日と15日に、リンゴ、バナナ、みかん、餅(菓子)、米、塩、水、酒(泡盛)、そしてヒラウコー(平御香)17本を供えます。

神仏に護られている

これだけいろいろと家で神仏をお祀りしていると、ほんとに護られているなーと感じることがあるんですよ。
でも「お守りください」とはお願いしていませんよ。
いつも「お守りくださってありがとうございます」と祈ります。
みなさんご承知の通り、ぼくは基本的に、どんな神仏に対しても、個人的な願い事はしません。
これだけいろいろお祀りしているのも、カミンチューに薦められてのことだったり、うしろの存在からの指示だったりします。


毎朝神さまの前で手を合わせる時に、七福神の前で祈ると、なぜか嬉しくなるんですね。
これは恐らくなんですが、経済的なことでもご加護していただいているような気がします。
最初は夢枕で言われたのだと思いますが、たぶんそういう意図をもって、うしろの存在が指示したのではないかと。

お金が欲しい

お金のことをいうと、神仏の手足となって働く者には、やはり神々は必要なお金などは用意してくださるようです。
もっとも、絶対に「必要以上に」ではないです。
必要なことをするために足りるだけの、ということです。
「お金が欲しい」と思っても、与えられるものではないでしょう。
もっとも、たとえばある人に今、これだけのお金を与えないと悪いことをすることがわかっているような場合には、必要悪的な意味で与えることもあるかもしれません。
でも、人間の欲望というのはキリがないですからね。
100万円を得たら、こんどは1千万円、次は1億円と。
やっぱり、霊性の道を歩む者としては「足ることを知る」ことが大切でしょう。
というか、個人的にいうと、そういう欲望の権化みたいな存在は自分の美意識に反するんですね。
もう醜いとしかいえない。
でも、今の世の中、そういう人たちがたくさんいますが。

暑さがきっかけに

どんどん話がそれていってますが…。^^;
いよいよ夏も終わりですね。
この頃になると、昔のオフコースの『夏の終わり』を口ずさみたくなるんですよ。
あれを聴くと切なくなってくるけれど、今年の夏は「早く終ってほしい」というのが本音でしょうね。
『夏の終わり』はほんとに隠れた名曲だと思うけれど、あんまり知られていないんですね。
YouTubeでも出てこないし。
出てこないから自分で歌ってアップしてもいいんだけど、それやると著作権に触れるからダメなんですね。


インドネシアにいたときに思ったんですが、不思議なことが起きる条件として、暑い国とか暑い季節というのが一つにあるんですね。
暑さが霊的エネルギーに変換されるという可能性。
日本もインドネシアもそうですが、火山帯が走っていて磁気的異常が多いところでは、さらに超常現象的なことが起こりやすくなります。
夏の暑いときには霊的な現象が起きやすいというのも、たしかにあるでしょうね。
で、これはいつか書きたいんですが、日本は「シャーマニズム大国」だと思うんですね。
ほんとにいろんな形体のシャーマニズムが見られます。
一つには、やはり上に書いたような地理的要因があるみたいです。

神仏もいろいろ

前述のように、ぼくはいろんな神仏に対する信仰があって、またご縁があります。
これらすべての神さま仏さまに対して「願い事」などをしていたら、たぶんおかしくなってしまっているでしょうね。
それをやらないから救われているのでしょう。
だから、みなさんも、あんまりいろんな神社仏閣へお参りして願をかけて廻ったりしない方が良いですよ。
人間に近い存在ほど、つまり低い次元の神仏ほど、人間の願い事を叶えてくれるものです。
高い次元の神さまほど、宇宙創造主がその極地ですが、そういう存在ほど、願い事をしてもなかなか叶えてもらえません。
ただ、そういう低い次元の神仏とか神霊ほど、「お礼」を要求するわけですね。
また、礼を欠いたり、信仰をなくしてしまったときに、ひどい罰を与えます。
だから、怖いですよねー。
みんな「喉元すぎれば熱さを忘れる」ですからね。
感謝の念なんて、すぐに忘れてしまうから。


宇宙創造主といっても、名前はなくてもいいようなもんだと思うけれど、まあいろんな名前がついているから、好きなように呼べばいいと思います。
というか、いろんな側面があって、いろんな形で降りてきているみたいなんですね。
だから、おんなじ唯一神を信仰していて争い合うというのは愚かしいですね。
一神教多神教とはいっても、実際はそんなに違いはないことも多いと思うんです。
要は言葉の定義の問題ではないかと。

創造主とつながる(?)

創造主といえば、ぼくは若い頃に、誰に言われたのでもなく、世界の平和を祈るようになって、いま考えてみると、あの頃に宇宙創造の神に「つながった」のではないかと思うんです。
ただそう思っているだけかもしれないけれど。
何度か書いているけれど、例の宮澤賢治の「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という言葉にインスパイアされたんですね。
それからですね。自分のことを願わずに、神社仏閣へお参りして世界の平和を祈るようになったのは。
もっとも、それ以前から個人のことは祈らなかったかもしれませんが。
それ以前に、神社仏閣などあまり行かなかったというのが正確かな。
興味なかった、というか、神さまとか本当にいるのかどうかわからなかった。


自分のことばっかり考えて祈っていたら、同じように自分のことしか考えない神霊とつながるかもしれない。
全体のことを常に考えていたら、全体のことを考える神さまとつながるかもしれません。
神と人とのつながりとは、そういうもんではないかと思います。
「どっちがいいですか?」なんて聞いたりして。
人間の価値とは、「人生でどれだけ本質的なことに関わってきたか?」というあたりで決まってくる部分が大きいのではないかと思います。


でもね、たとえ御利益信仰みたいなところで留まっている人でも、暖かく見守ってあげたいと思うんですよ。
みんなそれぞれ霊的成長の途上にあるということでは同じですからね。
こういう考え方ができるようになったということは、50をすぎて少しは大人になったかな。^^
ぼくも若い頃はひどいもんでしたよ。
人のことは言えない。
自分は本当にいろいろ回り道をしてきたと思いますね。
それは今でもそうかもしれないけど。
まあそれも必要な過程だったのかもしれませんが。
でも、若い人たちには、回り道を少なくして、なるべく早く本質なところへ行き着いてほしいものだと思いますね。
ぼくの書くことが、少しでもそういう人たちの役に立てればと思って書いています。
大切なことは、いつも高みを目指すことを忘れないということでしょうか。


旧盆の話が、なぜかこんな話に発展してしまいましたが。
収拾つかなくなりそうなので、この辺でやめておきます。


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