探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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容姿なんて関係ない


ある女性があるところで、自分の容姿に自信がないという悩みを書いていた。
それ以上のことは、プライヴァシーもあるので、ちょっと書けない。


たとえ外見が美しくないとしても、それで悩むことはないだろうと思う。
それに、たとえ整形して外見的に美しくなったとしても…
寄ってくるのは、「それだけ」の人たちだ。
つまり、外見だけで人を判断するような人々。
そういう人と一緒になって、果たして本当に幸せになれるだろうか?


崇高なスピリチュアルな次元では、容姿の美醜など、人間の本質とあまり関係ない。
人間の本質が霊や魂であることを悟れば、外見的なものなど、重要でないことがわかってくる。
肉体など、死んでしまえば、それで終わりなのだ。
この世という1回限りの生で着る、着物のようなものだ。
こんど別の人間として生まれ変わってくるときには、まったく別の衣を着ることになる。
また、美しい人ほど、自分の容姿に執着をもつようになる。
「このままいつまでも美しくありたい」という、「無明」(無知であること)にとらわれてしまう。
つまり、美しく生まれたばかりに、霊的成長から遠ざかってしまうことになりかねないのだ。
古今東西の聖者たちを見ればわかるように、人間の外見というのは、その人の霊的成長の度合いと、あんまり関係ない。

美人薄命

「美人薄命」という言葉がある。
美しく生まれてきた女性ほど、世の中に敵が多いし、いろんな人々の「思い」=生霊によって、災いが生じるのだ。
本当に生霊というのは(本人たちに悪気がなくても)、災いをもたらすものなのだ。
ならば、美しくない方がある意味「幸せ」ではないか?


今の若い女性たちを見ていると、いわゆる容姿が優れていると言われる女性ほど、「霊性の探究なんて関係ない」という感じで生きている。
そういう女性たちは周囲にもてはやされて甘やかされて育っていくから、たとえば「生きることは苦である」などという崇高な次元での悟りなど得られるはずもない。
だが、年をとるに連れて、だんだん誰からも見向きもされなくなってくる。
そのときになって初めて「自分の人生はちょっと違うのでは?」と思い始めても…もう遅い(?)。


たとえば、こんどは男性が容姿端麗のケースを考える。
そういう人と一緒になる女性は、ある意味大変だ。
そういう男性はもてるし、一人の女性で満足できないことが多くなる。
浮気をされたり、それが離婚の原因にもつながる。
もてるばかりに、伴侶の女性は気が休まる暇もない。
そういう男性と結婚して、本当に幸せだろうか?
「美しさは災いを呼ぶ」だ。
もし私が女性だったら、顔は多少醜くても、ぜったいに浮気などしないような誠実な男性を選ぶだろう。
その方が、どんなにか幸せだろう。


私の個人的なことを書いてもあんまり意味がないかもしれないが…。
女性を選ぶ際に、外見的な部分など、ほとんど関係ない。
心がきれいな女性ならば、外見がどうであろうと、好きになるだろう。
それはもう、肉体と肉体という次元を超えたところで、結びついているからだろう。
だが、その「肉体を超えた次元」が、必ずしも高次元だとは限らない。
それは、「上には上がある」からだ。

霊的次元では

人間が死んだら誰でも行けるアストラル次元では、感情のエネルギーが主として働いている。
言い換えれば、感情的なものから抜けられない、「悟っていない者たち」の次元なのだ。
もっと上の、カラーナ次元へ行けば、その次元で主として生きている人々は、もう恋愛感情なども持たなくなるかもしれない。
霊体は形をもたず玉のような状態になり、男女の差もなくなる。
そこで見られるのは、2つの魂が1つに融合すること。


それから、誤解のないように書いておくが、「醜い人ほど業が深い」なんていうことはない。
逆に、自分の霊的成長のある目的で、あえて醜い両親を選んで生まれてくることだってある。
また、過去生の行いが現世の美しさをもたらしたというケースも、ないわけではない。
たとえば、過去生で人知れずある種の善行を積んだために、現世でとても美しい女性として生まれてきた。
だが、その気高い魂はは、キリスト教の修道院で一生を過ごすことを自ら選んだ。
つまり、その女性がいくら美しくても、ほとんどの男性の目にとまらずに人生を終えるわけで、その一生ではあんまり意味がなかったのだ。

だが現実は…

と、こうは書いてきても…
こういうことは、一つの理想ではあるけれど、現実はどうだろうか。
いままでは、どちらかというと一般論で書いてきた。
子供の頃から、たとえば親にさえ醜いと言われ続けてきたような女性だったら、
「やっぱりきれいな方がいい」と思うかもしれない。
女性の場合、容貌の問題は、男性とは重みが違ってくるのだろう。
そういう女性が、たとえば整形手術を受けたいと言ったときに、私は止められない。
いままで容姿のためにどんなに傷ついてきたか。
いままでどれだけ苦しんだかを思うと、かわいそうで、止められない。


ただ、どうなのか…。
整形という形で肉体に手を加えることは、ご先祖さま、両親からいただいた肉体を粗末にすることにならないだろうかと思うのだ。
スピリチュアル的な観点からして、整形するという行為は、どうなのか?
肉体とアストラル体の差異が出てきて、何か問題とならないだろうか。
子供を産んで、子供が大きくなって、親とあんまり似ていない自分を見て、どう思うだろうか。
直観的に、いろんな問題が出てきそうな気がする。
それらを乗り越えることも、ひとつの「学習」なのかもしれないが。
それを言うならば、恵まれていない容貌をもって生まれたこと自体も、「学習」ではないだろうか。


もっとも、容姿に対するコンプレックスによって人間不信や社会不安症が生じたりする場合ならば、整形というのも解決策になるかもしれないが。
その場合でも、まず整形に頼らずに他の方法で美を追求してはどうだろうか。
それがダメだったら、初めて整形を試みるとか。


最後に、これは言えるのではないかということは、自己愛が強い人ほど、容姿にコンプレックスをもつことが多いかもしれないということ。
もっと自分というものを突き放して見ることができる人は、それほどダメージが強くないのかもしれない。


自分はもちろん整形なんて考えたことがないし、周囲にもそういう人がいなかったら、そういうことを深く考えたことがなかった。
もっと熟考を重ねれば、ちょっと考え方が変わってくるかもしれない。

美しくなる努力

…というわけで、ちょっと考え方が変わったというか、考慮が足りない部分があったので、書き足すことに。
mixiでも何人かの人から意見をもらって、それも参考にしました。
まず、この世的な次元で美しく見える女性というのは、本人がそのような努力をしているからということは、もちろんあるだろう。
そして、それはもちろん評価されるべきことだろう。


ここでまた、個人的な嗜好を書いてしまうが、あくまでも参考までに。
自分的には、化粧をしている女性よりも、化粧をあまりせずに自然の美しさを見せてくれる女性の方に惹かれる。
化粧とは「化ける」という文字を使っているが、いくら化粧をしたところで、その人の内面的な本質が変わるわけではない。
昔、化粧というものがあまり好きではないというようなことをどこかで書いたことがある。
すると、ある女性から、自分も本当は嫌いだけれど、社会が化粧を強いるから、仕方なくやっている場合もあるのだ、と。

美しいということ

物理的次元での美醜と、その人の魂の成長の度合いはまったく関係ないというようなことを、上で書いてしまったかもしれない。
そういう誤解を与えかねない表現を、「てにおは」のレベルで修正しておいた。
厳密な意味では、そうではないと思う。
女性の場合でも男性でも、過去正でのある行為を持続したことによって、今生で優れた容姿を得られたというケースも、まったくないわけではないようなのだ。


チベット仏教などの教えによれば、アストラル界(という呼び方ではなく別の呼び方だが)では、人間の感情がそのまま顔立ちの変化として現れるというのだ。
たとえば、常に慈悲の心をもった存在は、観音菩薩のような柔和な顔になる。
また、常に怒りや恨みの念を持ち続けると、たとえばチベットの憤怒尊のような顔つきになってしまう。
もちろん上記の憤怒尊のような仏さまたちは、特別な目的をもってそのように描かれているのだが。


物理的次元の肉体とアストラル次元での身体(アストラル体)とは、密接にかかわりあっていて、それぞれの次元で単独で存在するものではない。
そういう意味では、霊的な次元での状態が、この世界にも大きな影響を与えるということは言えるのだ。


つまり、内面的な心の状態を改善すれば、その人の外面的な美しさに良い結果をもたらすとういことだ。
いっぱんに「美人」と呼ばれるのは、たんに外面的な美しさだけを言うのではなく、その心の状態なども含めた形で、そのような評価が与えられるのではないか。
mixi日記のコメントで、スピリチュアルな分野では美しい女性が多いと書いていた人がいたが、たしかにそうだろうと思う。
上に書いたような意味合いでの美しさを女性が目指すならば、それは大いに賛成したいところだ。


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