昨日は「愛すること・信じること」と題して書いてみた。↓
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20080825/ai
今日は、それに関連して「愛と赦し(ゆるし)」ということを書いてみたい。
昨日の記事のコメントで、mixi日記の方に書いてくれた人がいた。
ご主人の浮気を許すということを学んだとか。
それにヒントを得て、こんどは「赦し」ということを考えてみることにする。
夫婦間で浮気とか不倫とかいうことがあった場合、マイナスのカルマが働いている可能性を考えなければならない。
今生だけで原因を考えてみると、不倫をした方が一方的に悪いということになる。
だが、その真の「原因」が、二人の過去生にあるとしたら…?
過去生では逆の立場で、自分が不倫をしていた方だったのかもしれない。
逆縁で結ばれた夫婦の場合、そのようなことが起きる。
逆縁とは
昨日のmixi日記のコメントで、「逆縁」の意味を尋ねられた。
逆縁とは、仏教用語では、仏の教えを素直に信じない(縁に背く)ことをいう。
だが、男女のカルマに関して「逆縁」という場合、二人がマイナスのカルマで結びついていることを意味する。
その反対に、プラスのカルマで結びついた場合は「順縁」という。
逆縁の夫婦は、たとえば過去生で、極端な場合、お互いに殺し合うような間柄だったかもしれない。
この世で「敵(かたき)を取ってやろう」という場合、親子・兄弟・夫婦のように、身近な関係になるように生まれて来るのが、もっとも目的を果たしやすいのだ。
そのような逆縁の夫婦は、輪廻転生の中で何度も繰り返し夫婦となって、同じような傷つけ合いを繰り返す。
その場合、どちらか一方が赦しを与えない限り、両者の輪廻とカルマの鎖は、はずれない。
何度も生まれ変わり、立場が逆転しながら、同じことが繰り返される。
私自身も、その逆縁の夫婦となることを、2回経験した。
また、母子との逆縁で生まれてきているとも、言われたことがある。
過去生での母への恨みの念があると。
そのようなマイナスのカルマがある場合、神仏に対して「相手に対する恨みの念が消えますように」と祈ることが大切だろう。
キリシタンから「赦す」ことを学ぶ
自分自身の過去を考えてみる。
私も、人を赦すことができずに、多くの過ちを犯してきた。
こうしておけば良かったと今思っても、自分のもとを離れていった相手に対しては、もう遅い。
今回私は、長崎のキリシタン殉教者たちから、人を赦すことを改めて学んだ。
福音書の『主の祈り』には、こういうくだりがある。
「私たちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。」
イエスさまは、
十字架に架けられたときに、自分を十字架に架けた人々に対して、こう言われた。
「父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。」
(ルカ23:34)
この言葉は、イエスが本当に語ったものかどうかはわからない。
たとえば『THE FIVE GOSPELS(五つの福音書)』のような研究では、イエスが実際に語ったとはみなされていない。
もし本当に言われたとしたら、真の神の子の証だと思う。
たとえこれが後世の付会だとしても、「赦し」ということがイエスの教えの重要なものの一つであることは間違いないだろう。
いま執筆中の『聖地巡礼ファイル』「#300 殉教の地・犠牲の血」で、二十六聖人が長崎の西坂の丘で十字架にかけられたときのことを書いている。
パウロ三木という殉教者は、十字架にかけられたまま、そこに来ていた約4,000人を超える群集の前で、最後の説教をした。
そして、「私は太閤様(秀吉)も役人様も死刑にかかわる人をすべて許します」と語ったのだ。
なんと感動的な言葉だろう。
これが、これから死んでいくという人間から出た言葉なのだ。
イエスの真の教えが、この東の果ての国に正確に伝わっていたのだ。
愛することは、赦すこと
赦しを与えたときに、
憎しみは愛に変わる