今日は正月7日で、七草の日だ。
七草粥を食べる日だが、うちでは普通の白いお粥が出てきた。
今日で松の内も終わりということで、日本の正月の風習とユダヤ教の風習の類似点について書いてみる。
これについては、2年前も同じようなことを書いているので、その記事の補足という形で書くことにする。
まずはこちらを読んでください。↓
七草粥
七草粥については、2年前に書いたように、中国に起源をもつ習慣のようだ。
中国では正月の七日を「人の日」としている。
この日には、七種の菜を食べると「万病なし」という信仰があった。
なので、殊更にユダヤ教の風習との比較をするにあたっては、注意深くならなければいけない。
伊勢神宮では、正月7日に若菜の粥を供える神事があり、内宮では「新菜御饌(わかなのみけ)」、下宮では「新疏菜御饌(はつくさのみけ)」と呼ばれる。
ユダヤ教では、ユダヤ暦第1月の15日に、後述する「種入れぬパン」と共に、苦菜を食べる習慣があった。
ヘブライ語の「メローリーム」は、「苦菜」と訳されているが、これは特定の植物の名ではなく、「苦いもの」の意味なのだという。
これに該当する植物は、レタス、チコリー、こしょうぐさ、蛇の根、タンポポなどだそうだ。
餠
餠についても2年前に書いた通りで、古代イスラエルからつくられているマッツォとよく比較される。
ユダヤ教のペサハ(過ぎ越しの祭)は、ユダヤ月第1月の15日〜21日に行なわれる。
その際に、「種なしパン(マッツォ)」を食べるのだ。
このマッツォだが、最近読んだ『古代日本ユダヤ人渡来伝説』(坂東誠)によれば、「ハ・メッチ」とか「ハ・モッチ」とも呼ばれるそうだ。
頭の「ハ」は英語のTheのような定冠詞なので、これを取り除くと「モッチ」ともなる。
これが日本の餠の語源になったのだろうか。
だが、疑問も残る。
小麦は人類最古の作物の一つとされ、約10,000年前に、すでにその栽培が始められていたといわれる。
日本には、紀元前1世紀頃に伝来したと見られる。
日本では、2000年前の弥生式文化の中期頃には、水田耕作とともに麦類が畑作生産されていた。
小麦を重湯のようにして食べていた。
その後に、お粥や、粉にして平焼きとして食べるようになり、紀元前2,000年頃にはパンを作るようになった。
たとえば、秦氏が神道の祭りの供物として餠を採用したとしたと仮定する。
その際に、なぜ既に日本にあった小麦を原料とした食物を供えずに、米からつくった餠を使ったのだろうか。
更なる探究が必要だろう。
鏡開き
日本では古来、鏡開きは1月20日に行った。
関東地方では、1月11日に鏡開きを行なう。
これは、徳川家光が亡くなったのが4月20日だったため、1月20日を忌日として避け、松の内後の1月11日(旧暦)に行なうようになったという。
現在でも、関東以外の地方では、1月20日に鏡開きを行なうところが多い。
ちなみに、京都ではなぜか1月4日に行なわれる。
既に書いたように、ユダヤ教のペサハ(過ぎ越しの祭)は、ユダヤ月第1月の15日〜21日に行なわれる。
ペサハは「種を入れないパンの祭」とも呼ばれる。
ちょうど日本でも、かつては1月15日に正月を祝った。
ユダヤ暦と日本の旧暦では時期がずれるが、ユダヤ教でも日本でも、1月15日〜21日の1週間の間に「種を入れぬパン」(餠)を食べる習慣があったということになる。
【参考サイト】
- 七草粥
http://www.local.co.jp/hiroko/nanakusa.html - 知って得する小麦粉のお話(日清製粉グループ)
http://www.nisshin.com/study/library/flour/index.html
- 作者: 坂東誠
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