探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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行基とインドネシアのピラミッド


変なタイトルだが、読み進めるうちにその意味がわかっていただけるだろう。
忙しくてなかなか書けなかったが、3/27(金)のasahi.comなどのニュースで面白い記事があった。
大阪府堺市に、奈良時代の僧・行基が築いたとされる「土塔(どとう)」という建造物が復元された。
約1300年前の築造当時の姿に復元され、3月27日に現地で完成記念式典が開催された。
堺市中区土塔町2143-1の土塔町公園内にあり、4月1日から一般公開されているはずだ。

行基が建てたピラミッド?

この土塔をなぜ話題にするかというと、その形が、なんとピラミッド型をしているからだ。
土塔の名の通り、土を盛って作られたもので、一辺が53.1m、高さが8.6m以上ある。
その構造は13層の階段状で、エジプトのピラミッドと異なるのは、頂上部分が平坦になっていること。
堺市によると、「土で盛られた仏塔としては国内最大」という。
周囲に褐色の瓦(かわら)を計5万枚も葺(ふ)いている。
瓦の中には、文字が刻まれたものもあり、「文字瓦」と呼ばれている。
Google Earthで見ると、ほぼ東西南北に向いて建てられている。
まだ復元工事中の衛星写真で、傍らにブルドーザーのような車が止まっている。


下記のasahi.comの記事に、ヘリコプターからの写真が載っている。↓

土塔町公園では、この土塔の模型化したモニュメントも作られている。
こちらのYOMIURI ONLINEの記事で、その写真が載っている。↓

堺市の下記の2ページでは、より詳細の解説や写真がある。


今回からこのブログで、「ちず窓」というサービスをお試しで利用することにした。
はてなダイアリーGoogle地図と違って静的な画像なので、マウスドラッグなどはできない。
だが、地図上でクリックすると「ちず窓」サイトへジャンプし、ドラッグや縮尺の変更など自由に操作ができる。
Googleマップよりもカラフルで良いかもしれない。
土塔


下記のGoogle地図では、衛星写真で見られる。
左上の「+」部分を何度もクリックしていくと縮尺が拡大されていき、衛星写真上で形がわかる。
右上の「map」「satelite」「hybrid」をクリックすると、地図や衛星写真や両者のミックスに変えられる。
地図内でマウスでドラッグすると、地図を動かせる。

行基とは

この土塔がある土塔公園は、以前は隣接する大野寺の境内だった。
大野寺は、行基が727年に建立した寺だ。
平安時代末期に書かれた『行基年譜』によると、神亀4年(727)に行基によって建てられ始めたという。


行基(ぎょうき、ぎょうぎ)は、天智天皇7年(668年)から天平21年2月2日(749年2月23日)に生きた、奈良時代の僧だった。
父は渡来人氏族の西文氏(かわちのふみうじ)の一族の高志氏で、母は河内国大鳥郡の出身。
この土塔がある現在の堺市に生まれた。
15歳で出家してからは、関西地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業を行なったことで知られる。
関西地方を中心に多くの寺を建て、多くの温泉を掘り、また多くの貯水池を掘るよう指導をした。
東大寺の大仏建立のための資金集めのために各地を歩いたのも行基だった。
たんなる私度僧(国家の許可なく僧となった者)だったが、その業績が認められ、大僧正(だいそうじょう)に任ぜられた。
人々からは「行基菩薩」と称えられた。

もう一つのピラミッド〜頭塔

じつは、土塔のようなピラミッド型の建造物は、もう一つある。
奈良市高畑町にある頭塔(ずとう)と呼ばれるものだ。
1辺30m、高さ10mで、7段の階段ピラミッド状の構造をしている。
高さは土塔と同じ位だが、こちらの方が小さい。
基層となっている2層の土台の上に、さらに7層の階段状に造られている。
土ではなく、自然石を積み重ねたものだ。
こちらも以前は土塔と呼ばれていたが、いつしか「ずとう」に転訛したらしい。


こちらのページで、頭塔について紹介していて、写真も見られる。↓


頭塔は民間人が管理している。
表具店で、入場料を払って鍵を借りて入る必要がある。
頭塔


下記Wikipediaでは、『東大寺要録』の記録で、奈良時代の僧・実忠(じつちゅう)によって造営されたとある。

だが、下記サイトによれば、下層の造営は天平宝字4年(760)に始まったとある。
その7年後の神護景雲元年(767)に、実忠によって全面的に改造されたらしい。
下記のサイトによると、この頭塔も行基が関係しているらしい。

実忠(じつちゅう)と頭塔

実忠については、最近このブログで話題にしたことがあった。
そう、1ヶ月前に書いた、東大寺のお水取りの話だ。
修二会(お水取り)を始めた実忠は、京都大学名誉教授の故伊藤義教氏によればイラン系の渡来人だというのだ。


蘇我氏聖徳太子がイラン系の渡来人かもしれないと思い、探究を続けている。
最近では、ペルシャ系でもソグド人である可能性を考えている。
これについては長くなるので、また別の機会に書くことに。


この実忠という人物が絡んでいるとなると、話はますます面白くなってくる。
ペルシャからの渡来人だとすれば、エジプトのピラミッドを知っていてもおかしくないだろう。
もっとも、そのように直接的にかかわりがないとしても、たとえば後述するように、朝鮮半島の積石塚などから影響を受けたのかもしれない。

行基と頭塔と秦氏

話は逸れたが、行基と頭塔との関係について書いておく。
前述の「奈良歴史漫歩」サイト筆者は、大仏の造営に関わった行基の信徒たちが、土塔を参考にして、この頭塔を企て建立したのではないかという。


下記のサイトによれば、行基は秦氏(はたのうじ)とも関係があったという。
秦氏といえば、応神天皇の頃に朝鮮半島伽耶*1あたりから渡来した氏族だ。
行基も先祖が西文氏(かわちのふみうじ)で、やはり同じ頃に日本に渡ってきている。
また、行基の十弟子の一人「延豊」は秦氏の出身だったとある。

日本のピラミッド

群馬県太田市明王院という寺にもピラミッド型の建造物がある。
千体不動供養塔というものだが、江戸時代に造られたものだから、ずっと新しい。
奈良の頭塔などを真似て造られたものなのだろうか。
下記のブログに写真が載っている。


他にも日本には各地に「ピラミッド」が存在する。
日本の場合、山そのものがピラミッドとなっているため、その存在自体が気づかれないこともある。
秋田県黒又山(クロマンタ山)ピラミッドなどが有名だ。
地中探査レーダーを用いた調査によれば、この山は7層または10層の「テラス状(階段状)」になっているという。
つまり人工的に整形された山なのだ。
これはBC2000年頃に造られたものであるらしい。


若い頃に、長野県松代市の皆神山に登ったことがあった。
一時期、週刊誌などで日本のピラミッドとして騒がれたところだ。
たしかに人工的な石積みなどが見られ、興味深かった。

積石塚ピラミッド

朝鮮半島にも、ピラミッド状の建造物がある。
私が最近探究を続けている、積石塚(つみいしづか)だ。
たとえば将軍塚など、頂上の部分がないが、石を積み重ねたピラミッドのような形をしている。
高句麗の広開土王または長寿王の陵墓という説がある。
こちらのサイトに写真がある。↓


積石塚は日本でも広く見られるが、高句麗の遺跡と同様に、頂上部分が広く平坦になっている。
自然石を積み上げていくだけでは、強度の問題から頂上部分まで四角錐の形にできなかったのだろうか。


大阪府柏原市国分市場の松岳山古墳群には、茶臼塚古墳がある。
これは3層の階段状ピラミッドで、頭塔と似ている。
このように、積石塚の一部にもピラミッド状の形をしたものがある。

インドネシアのピラミッド?

ピラミッド型で思い出すのが、インドネシア・ジャワ島の世界遺産として知られるボロブドゥル(ボロブドゥール)仏教遺跡だ。
下記のノンフィクション作品で写真を載せているが、あまりにも巨大なため、その全貌がわからない。

こちらのWikipediaのページには、いろいろな写真や図がある。


また、ジャワ島やバリ島には他にもいくつか、ピラミッド型の建造物がある。
その一つであるスクゥ寺院(Candi Sukuh)は、アッと驚くような奇怪な外観だった。
マヤ文明のピラミッドと酷似した階段状ピラミッドなのだ。
私が働いていた東ジャワの田舎町マディユンは、ラウゥ山(標高3265m)の東の麓にある。
その山の西の中腹に、この遺跡がある。
下記は、私が撮影した写真だ。

スクゥ寺院については、こちらの作品で紹介している。↓

比較のために、マヤのピラミッドの写真を載せておく。↓
Photobucket


また、下記の写真はスクゥ寺院の境内にあるレリーフだが、どことなくマヤ風な雰囲気がある。
ジャワ人の文化には摩訶不思議なところがあって、いったい彼らはどこから来たのだろうかと思ってしまう。


バリ島にも、ほとんど知られていないが、ピラミッド状の建造物がある。
日本環太平洋学会の現地調査では、ジャワ島で3基、バリ島で9基ものピラミッドが発見されたという。
『失われたムー文明の刻印』(鈴木旭日本文芸社)には、その一つのバリのピラミッドの写真が載っている。
これを見ると、7層から成るピラミッドだ。
大きさは非常に小さいが、頭塔に似ている。
ただし、これらは石造りで、土を盛ってつくった土塔とは異なる。
私はかつて、バリ島ウブドゥ郡のプリヤタン村でガムラン音楽を習っていた。
プリヤタン村のヒンドゥー経寺院にも、このような形の建造物があったかもしれない。

行基のアイデアはどこから?

最後に行基に話を戻す。
はたして行基は、どこからピラミッド型建造物というアイデアを得たのだろうか。
イラン系渡来人だったといわれる実忠か、それとも秦氏からなのか。
行基の先祖である西文氏は百済からの渡来人だとされている。
先祖がいた朝鮮半島の積石塚が何らかの形で伝わったものなのだろうか。


【2009/04/12追記】
じつは、この記事を書くちょっと前に、「行基のピラミッド」について本で読んでいたのだ。
あまり関心が沸かなかったので、読み過ごしていた。
それは、さいきん何度も話題にする『封印された古代史ミステリー』(久慈力、学研)だ。
この1章「27章・行基ミステリー」では、土塔と頭塔について紹介されている。
筆者によれば、行基は来日したインドのバラモン僧・菩提遷那と3回会見するなど、たびたび交流していたという。
そして、仏塔ストゥーヴァの情報を得ていたのではないかという。
ピラミッドもまた、シルクロードなどを通じて東へと伝わっていったのかもしれない。


いろいろ想像を巡らせると楽しいものだ。
昨日もインドネシア関係の記事を書いたが、今日もまたインドネシアに話がつながってしまった。


※これからは「中学生にもわかるブログ」を目指して、わかりやすく書いたつもりだけど…。
やっぱり難しいかな〜。


ボロブドール遺跡めぐり (とんぼの本)

ボロブドール遺跡めぐり (とんぼの本)

(プランバナン寺院群やスクゥ寺院も紹介されている)

*1:かや。朝鮮半島の東南端、今の韓国の慶尚南道金海市あたりにあった小国群


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