探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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断食の効用


風邪の方だが、気管支の炎症がかなり進んでいたようだ。
そこで、金曜日からニンニクをごま油で蒸し焼きにしたものを少量食べるようにした。
気管支の奥からこみ上げるように出ていた咳が出なくなった。
ただ、ニンニクを食べると夜眠れなくなるので、明日から仕事があるので、今夜からは食べないことにしよう。
あとは、リンゴとニンジンのミックスジュースなどを盛んに飲んでいる。
快方に向かっているので、明日には仕事に復帰できるだろう。


今日、近所のドコモショップへ行って、Blackberry Boldを注文した。
価格が40000円を切っていて、これ以上は下がらないだろうと判断して。
いまのケータイの一般的な値段を考えると、これが限度だろう。


昨日の記事では、インドネシアイスラム教ラマダン(断食月)の開始された日だと書いた。
今日は続いて、断食について書いてみたい。


思えば、私の聖地巡礼では、いつからか断食を伴うようになっていった。
1999年前後に、イスラエルやジャワ島の聖地を巡った時に、渡航前から口内炎になって、食べ物がほとんど食べられなくなったことがあった。
一度や二度ならば偶然だと思うが、そういうことが何度か続いた。
それで、「ああ、これは断食しろということなんだな」と直観的に理解した。
それ以来、聖地巡礼の際には、その日の最後の巡礼が終わるまで、断食することにした。

ラマダン初日の様子

昨日はラマダン月の初日だった。
Facebookの友達の友達のリストから、ムスリムを見つけて何人かに友達追加リクエストを送った。
女性の場合、敬虔なムスリムはトゥドゥンというベールを被って髪を見せないようにしているので、写真ですぐわかるのだ。
本来、イスラム教では女性は肘と膝から内側の身体は露出してはいけないことになっている。


そうして、何人か若い女性のムスリムの友達ができた。
彼女たちは、自分の掲示板で「つらい」とか「死にそう」とか書いている。
日本で断食するのとは、わけが違うのだ。
「断食明けの夕食は何を食べようかな」とか、ほほえましい書き込みもある。


MySpace以来の友達で、Facebookで断食を始めたと書き込んでいた子もいた。
普段はトゥドゥンを被っていないので、ムスリムだとは知らなかった。
SNSで知り合うインドネシア人は、なぜかクリスチャンがやたらに多く感じる。
インドネシア人口の90%はムスリムのはずなのに。
ひとつには、常時インターネットができるようなお金持ちには、華人が多いこともあるのだろう。
インドネシア華人のほとんどはクリスチャンで、中には仏教徒もいる。
それから、もしかしたら個人でムスリムからクリスチャンへ改宗した人もいるのかもしれない。
たとえば、外国人と結婚を望んでいる女性などで。


インドネシアでは通常、朝食からけっこう量を多くとる。
それでなければ、体力がもたない。
ナシゴレン(焼き飯)が朝食の定番だが、量が多い。
サンバルで味を付けているので、辛くて食欲が出るから、多く食べられる。
サンバルというのは、ニンニクとチャベ(唐辛子)を主体にしてつくられる、赤々とした調味料だ。
やはり熱帯の国では、じっとしていてもエネルギーを消耗するのだ。


今回のジャワ島聖地巡礼でも、もちろんプアサ(断食)状態で巡礼した。
今回はあまり長い距離を歩き回らなかったので、それほど辛くもなかった。
日本でも、1日10キロとか歩き回ることもあるが、あまり空腹とか感じることはない。
もう慣れているせいもあるかもしれない。
それに、私の聖地巡礼はだいたい午後4時頃に終わって、それ以降は食べることができる。


私の場合、断食中に水分は取る。
だが、インドネシアでは、それも許されない。
あの暑い国で、さぞかし大変だろうと思う。

祈りと断食

なぜ聖地巡礼のときに、断食をするのか。
それは、断食状態では、精神集中力が増して、祈りの力が強まるということがあるだろう。
祈りや瞑想をするには、満腹状態は向いていない。
やはり胃の中が空でクリアな精神状態になれる断食状態が最善なのだ。


イスラム教では、1日5回の礼拝が義務付けられている。
1回目は夜明け、2回目は夜明けから日が中没するまで、3回目は影が自分の身長と同じになるまで、4回目は日没から日がなくなるまで、そして最後は夜間。
インドネシアでは、1回目の夜明けの礼拝の呼びかけが、4時過ぎ頃に来る。
マスジッド(モスク)から大音響で放送が入るのだ。
その礼拝の呼びかけをアザーンと呼ぶが、中東風の独特な韻律に乗って、詠唱が唱えられる。
1994年9月末に東ジャワマディユンに赴任して、ホテルに滞在した。
その翌朝、はじめてそれを体験した。
ホテルの隣がイスラム教の学校になっていて、そこから大音量でアザーンが響き渡るのだ。
うるさくて、たまったものではない。


仕事が終わるのが4時で、ホテルに戻る頃に、またアザーンが流れる。
ベランダに出て外を眺めると、無数のコウモリが空を飛び交っている。
不気味な光景だ。
そんな中を、アザーンが流れる。
自分は遠いところへ来たものだと、しみじみ思ったものだった。
そして、これからどういう展開になるのだろうと、心細くなってきたというよりは、他人事のように面白くなってきた。

断食の霊的な意味

ちょっと脱線したが、イスラム教徒は、そういう風にして真面目に1日5回の礼拝をする。
そして1年のうち1ヶ月は断食する。
そういうことを繰り返していると、祈りの力や霊力のようなものもついてくるのだろう。
実際、敬虔なムスリムの中には、直観に長けたような人が少なくない。


食欲は、人間の欲望の中でも最も強いものだ。
それを否定して、自分の欲望を抑制する訓練をすることは、人間の霊的成長にとって好ましい結果をもたらす。
食べることや味覚の習慣から、ある程度自由になれるのだ。
わが尊敬するパラマハンサ・ヨガナンダ師が、生前のガンジー師に会ったときのこと。
そのときガンジー師は、血液を清浄にする効果があるが、とても苦いせんだんの葉のペーストを、何気に食べていた。
ヨガナンダ師はそれを見て、この偉大な人物は心を感覚から自由に切り離すことができるのだと感心した。
『あるヨギの自叙伝』に書かれている逸話だ。


たとえば、ヴェジタリアンが心身ともに良いとわかっているのに、肉をやめられない。
そういう人は、まだ味覚や食の習慣から自由になれていない状態だろう。
そのような習慣は、1回の人生で変えられるものではないかもしれない。
だが、始めようという気がなければ、いつまでも始まらないだろう。
インドネシアの人々は、ムスリムでなくてもプアサ(断食)などをすることがある。
たとえば私の以前のジャワ人の彼女は、自分の人生が「困難」だからといって、1日ご飯だけ食べる行をやっていた。
こういうのも、ひとつの霊的成長のための訓練といえるかもしれない。

健康にも良い

また、私がいつも書いているように、断食や小食は、人間の健康状態を改善させる。
人間は、食べなさすぎよりも、食べ過ぎによって様々な病気になる。
そういう悪習を一時的にも改善すれば、健康を取り戻せるのだ。
食べる量を減らして空腹状態の方が、免疫力が上昇して病気に打ち勝つことができることもわかっている。


私は断食する時以外でも、1日1.5食の小食だ。
昼食は、仕事中だったら小さなおにぎりを1個食べる程度。
最近は、松の実やカボチャの種をちょっとだけ食べて、ニンジンジュースを飲んで、それを「昼食」としたりしている。
だが、それで体力が落ちるというようなことはない。
かえってわき腹の贅肉が取れて、調子が良くなるくらいだ。


断食することによって、霊力がついたり、健康も得られる。
いいことづくめではないか。


あるヨギの自叙伝

あるヨギの自叙伝


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