東日本大震災の発生から、今日でちょうど1ヶ月たった。
もう誰もが知っていることだけれど、東日本大震災のエピソードを敢えて紹介する。
今日Facebookのインドネシアの友人が、CNNのビデオを紹介していた。
動画を見て、誰のことかすぐにわかった。
- Defiant Japanese boat captain rode out tsunami (CNN)
http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/04/03/japan.tsunami.captain/index.html
CNNが伝えているのは、東日本大震災の津波が来たときに、漁船を守るために沖へと向かっていった漁師・菅原進さん(69)のこと。
菅原さんが住む気仙沼対岸の大島は、900人乗りフェリーが壊れて孤立した。
破壊を免れた菅原さんの船「ひまわり」が、今も大島で人と物資を運ぶ唯一の手段となっている。
詳細は、下記の毎日JPの記事で読むことができる。
菅原さんは、42人乗りの古い客船「ひまわり」の船長。
自身も避難所生活を送る被災者だが、3/11の地震の2日後から毎日、島と気仙沼港を愛船で往復し、人と物資を運び続けている。
菅原さんは、気仙沼港とを結ぶ定期便が1日数本しかなく不便さを痛感し、夜間の臨時便としてひまわりの運航を始めた。
大島で欠かせない交通手段として、40年以上利用されてきた。
3/11に自宅で地震に遭った菅原さんは、津波から守ろうとひまわりに乗り込み、敢えて沖に向かった。
そして、すぐに高さ数メートルの津波がやってきた。
「逃げたら転覆する。前に進むしかない」。
眼前に壁のように立ちはだかる大波を4回ほど乗り越えて、海が落ち着いたのを確認してから島に引き返した。
大島は沿岸部が津波で壊滅状態で、火災も起きていた。
菅原さんの妻と同居の三女、2人の孫は無事だったが、自宅は1階部分が海水に浸かって住めなくなった。
その後、ひまわり号は本土と大島を結ぶ貴重な交通機関として、現在も航行している。
船は助かったが乗員が行方不明になったケース
沖へ逃げて助かった別のケースとして、宮城県・塩釜港沖で津波に遭った県漁協保戸島支店のマグロはえ縄漁船「第3くに丸」がある。
下記の3/17時点の記事では、インドネシア国籍の乗組員4人が行方不明になった。
第3くに丸の乗組員10人(日本人3人、インドネシア人7人)のうち、地震の3日後の14日に三崎港に着いたのは、5人だけだった。
船上で出港準備をしていた時に、地震が起きた。
近くの人から「震度7。津波が来る」と聞いた。
陸か、沖か、どちらに逃げるかという決断に迫られた。
「津波は沖に逃げろ」
以前そう教えられた気がして、沖を目指した。
機関長と一緒にブリッジに入り、他の乗組員には船室から出ないよう命じた。
すごい勢いの引き潮が起きて、舵は利かず、速度が出ない。
あまり沖に出られないまま30〜40分後、軽いうねりのような第1波をやり過ごした。
だが、遠くに高く盛り上がった海が見え、10メートルのマストより高い波が近づいた。
船首が垂直に持ち上がった後、海面に叩きつけられた。
3波、4波と続いたと思うが、放心状態で覚えていなかった。
第1波後、様子を見に船室から出た乗組員のうち4人が波にさらわれてしまった。
「もし陸に逃げていたら全員無事だったのではと考えると、言葉にならない。われわれは助かったがとても喜べない」
このケースでは、判断が微妙なところだっただろう。
だが、船室から外へ出てしまったために波にさらわれたのであって、船長を責めることはできない。
様子を見に外に出なければ、全員が助かっていたかもしれない。