ジョーティシュの話。ヴェーダ占星学とか、ジョーティシャとかとも呼ばれる。インド占星術のことだ。
若い頃に占星術に関心を抱いたのは、「占い」としてではなく、いってみればユング的な意味合いでの心理学的アプローチだった。そして、たしかに人間が生まれた時の天体の配置というものが、その人の性格や行動の基準などに大きな影響を与えるということがわかった。ここで重要なことは、あくまでも性格などに対する影響であって、「運命」に対してではないということだ。
更に調べていくうちに、占星術的主張に対する有意な科学的研究結果があることも知った。日本ではほとんど知られていないが、フランスのミッシェル・ゴクラン博士の研究だ。統計学の手法によって、スポーツ選手や医者などの特定の職業の人々の出生データをコンピューター解析し、ある惑星の「影響のもとに」生まれた人々が偶然の一致を超えた確率で多く存在することを立証した人だ。
このような探求の結果としてたどり着いたのが、ジョーティシュだった。これはもう占いの域をはるかに越えて、人の一生で起きることを恐ろしいほどに言い当てる。だがそれはテクニックによるものではなく、占う者の霊的資質が求められて、更にストイックな霊的修行などの生活が要求され、そのような人が判断したときに初めて、ジョーティシュは意味のある結果を出す。日本でジョーティシュを研究したり職業とする人のほとんどは、この点を誤解しているのではないか。
ジョーティシュというのは、それによって導き出された人の悪いカルマをどうやって克服しようかという方法論とセットになって、初めて意味をなすものだ。その方法論というのが、たとえばプージャと呼ばれる祈願の儀式・祭祀だ。
ジョーティシュは、人助けに使えると思った。たとえば相性が悪い同士の男女が結びつく前にアドバイスを与えるとか、警告するとか。だが、普通の人は、自分についての真実を知らされた時に、それを必ずしも歓迎するとは限らない。特に、自分について悪いことを言われたときには。だから、占ってくださいと人に頼まれたときも、その「悪いこと」の部分はそのまま伝えることはしない。だが「この人ならばここまで言っても受け入れられるだろう」と思ったときには、その限りではない。
だが、インド人たちの人生に対する態度は「人生は良いことばかり起きるとは限らない。むしろ悪いことの方が多い」と思っている節がある。そのへんが現世利益やこの世を謳歌することばかり追求する漢民族と異なるところだ。
ジョーティシュの中に、ナクシャトラというものがある。これは、ある人の生まれた時の月の位置によって性格などを判断するものだ。生まれた時の月の位置がわかれば、その人についてのだいたいのことはわかってしまうことは、若い頃から経験的にわかっていた。もちろんそれは西洋占星術の12サインによる区別ではなく、インドの伝統的な27星宿によるものだ。
西洋占星術では太陽の位置がその人の自我の本質を表すもっとも重要な惑星とされるが、ジョーティシュではむしろ、月の位置とラグナ(アセンダント)が最も重要とされる。
私のところに人生相談、霊的相談的なメールが舞い込んでくると、その人の生年月日がわかっている場合は、占星術ソフト(アストロロジー、ジョーティシュ)を使って、生まれたときの星回りを調べて、その人がどういう性格なのかを参考にしてアドバイスを与えることにしている。
27宿というと、占いに詳しい人ならば宿曜占術を連想するだろう。むかし弘法大師空海が唐から持ち帰った『宿曜経』という経典に起源を発するものだ。あれはたしかに人間の相性などについてかなり的確な判断ができるが、惜しむらくは正確さにかけている。生まれた時間を考慮しないからだ。そのへんが(インドを除く)東洋の占星術の限界だろう。生まれた時間までも正確に求めて判定するという意味では、ジョーティシュは西洋占星術よりもずっとシビアだ。それには訳がある。
ダーシャといって、人生の浮き沈みの波を求める方法があって、これを求めるには分刻みの正確な出生時間が必須なのだ。生まれた時間が「だいたい○時頃」というように大まかにしかわからない場合は、正確なダーシャを求めるには絶望的になる。
ナクシャトラがどれだけ的確な判断ができるか例として、自分の場合を考えてみる。ところで、ジョーティシュでは惑星の12宮内での位置が西洋占星術のそれとは異なる。たとえば私は西洋占星術でいうと、生まれた時に太陽がおうし座にあったのだが、ジョーティシュではおひつじ座になってしまう。なぜそうなるのかというと、太陽の黄道上の歳差運動とかいう難しい話になってしまうので省略する。
と、ここまで書いて、眼精疲労がひどくなってきて頭が痛い。続きは後日書くことにする。