このタイトルで記事を書くと、一度だけでは書ききれないので、思いついたときに断続的に書いていくことににします。
まず、まったく関係ない話から始まるけれど、うちの息子は、お寺が経営のR幼稚園ではなくて、M幼稚園に入れることにしました。
R幼稚園は、小学校のように夏・冬・春の休みがあって、その間は預けられないんですね。
これじゃあママが働けないということで、第二候補の幼稚園に決めました。
その息子なんですが、本当に食の嗜好が変わっているんですね。
きのうの夕ご飯はおでんが出て、さつま揚げやはんぺんには目もくれず、シラタキばっかり食べていました。
「おかわり!」と言って、けっきょく3束(?)も食べてしまった。
ご飯は白いご飯しか食べず、ふりかけや納豆以外のものが混ざっていると手をつけないから、チャーハンとかはダメ。
それからテレビ番組では『水戸黄門』が好きで、他の時代劇でも、意味もわからないのにジッと見てるんですね。
まったく何が面白いんだか…。
ほんとにおかしな子です。
もしかして、前世では江戸時代頃に生きていたりして。
昨日のコメントにちょっと書いたけれど、白砂糖も麻薬みたいなものです。
白砂糖がもたらす低血糖とハイパーアクティブ症候群の恐ろしさについてはもう何度も書いているので、書きませんが。
砂糖は肉とともに、過食すると暴力的になります。
米国のある少年院だかどこかで、食事から白砂糖を制限したところ、少年たちが大人しくなって暴力的な部分がなくなっていったという研究報告があります。
たしかエドガー・ケイシーのリーディングで言及されていたと思ったけれど、チョコレートというのは頭痛の原因にもなったりして、本当に食べ過ぎは良くないです。
それから日本で売られているパン。
あれは人間の食べるもんじゃないと言ったら言いすぎかもしれませんが、白砂糖や食品添加物など体に良くないものがどっさり入っているので、要注意です。
だいたいパンなんていうものは大量生産するものではないんです。
それができてしまっているというのは、どこか無理があるわけです。
日本人の主食である米について言えば、本当は玄米が生命力や気がもっともよく含まれていて良いのだろうけれど、現代人の生活に必ずしも合っていない部分もあるんですね。
昭和天皇もたしか七分づきのお米を召し上がっていたと思いますが、胚芽精米とか、ああいう米を本当は食べたいんです。
または麦や黒米・赤米を混ぜたりとか。
米だけでなく、やっぱり植物の芽の部分というのは、もっとも生命力にあふれたところでしょうね。
でも、うちの子が白いご飯しか食べないから、いまは白米で我慢してます。
胚芽米とかに慣れていると、白米って本当にまずく感じるんですね。
よく言われるように、『粕』(かす)という漢字は米偏に白と書きます。
つまり白米というのは、胚芽部分に比べると栄養素があまりない「粕」なんですね。
それを、おいしいおいしいといって食べているわけです。
「スピリチュアルな食生活」という意味では、まず何よりも大切なのは、「食べ物を粗末にしない」ということだと個人的には思っています。
実際、霊的な観点からいうと、人間は真の健康を得るためには、食べ物を残したりせず、すべて食べきるということが重要だと思っています。
食べ物を残すと、人間のために犠牲になってくれた動物や植物に対して申し訳ないという気持があります。
私自身は本来小食だし、本当は粗食に徹したいのだけど、家で出されるおかずを残すことに抵抗あるから、食べ過ぎて胃の調子が悪くなったりするんですね。
刺身のツマやパセリも残しません。
朝食は食べず、昼は小さなおにぎり1個、夜は肉なしの少ないおかずに、ご飯を女茶碗に一善と決めています。
ちなみに、「朝食を食べなければいけない」というのはひとつの幻想だと思うんですね。
食べたくないと思っている人にとっては、ほとんど強迫観念ですね。
朝食を食べなくたって、健康になる人はなるんだと思います。
特に私のような頭脳労働者(?)には、1日3食は害あって益なしだと思います。
小食で済む人というのは、過去生からの霊的修行の成果であったりする場合もあるだろうし、また、たとえば喉のところのヴィシュダチャクラがある程度動いている人は、小食で済む場合もあるように思います。
私自身も、このヴィシュダチャクラがこの世的な次元でもっとも動いているようです。
雑談的になってしまったけれど、1:00を過ぎてしまったので、今日はこの辺で。