探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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何のために、何をしに、生まれてきたのか?〜空海の答え


今日のmixiマイミクさんの日記で、こういうタイトルを見つけた。
「わたしは なんのために・・・何をしに 今世 生まれてきたのか」
それにインスパイアされたので、この記事を書くことにした。
というわけで、このマイミクさんの日記の内容とは、あまり関係ないかもしれない。
あくまでもタイトルだけ借りて、記事を書くことにする。


自分的にわかりきっていることを何度も書くのは、自分の美意識に反することなので、今後はあまり書かないだろうけれど。
もちろん、これは私がそう思っているということであって、それを人に押し付けることは絶対にしたくない。
これは、ものを書くときに常に念頭に置いている私のスタンスだ。


ちょうど、最近mixiで知り合った20代前半の女性も、同じような問いを私に投げかけてきた。
「私はなぜ生きてるのか?、自分は何をするためにこの世に生まれたてきたのか?」と。
その真摯な態度に心打たれた。
上記の問いへの私なりの答えとしては、やはり「スピリチュアル」的な答え以外にないだろう。
もうすぐ40年になるが、その間、このようなことをいつも自分に問いかけて、探究して、今日に至っている。

何のために?

「何のために、何をしに、この世に生まれてきたのか?」という問いに対しては、
(1)個人的レベルでは、本人の「霊的成長」を遂げる修行(学習)のため
(2)非個人的レベルでは、世界全体が平和になり、究極的には神の国・仏の国をこの世につくるため
…という目的をもって、この世に生まれてきた、ということだろう。


上記の原則が当てはまらない人というのは、まずいないのではないか。
もっとも、地球を救うという特別な目的をもって生まれてきた「神の子」のような人々は、(1)には当てはまらないだろうが。


…ということを考えながら、この世を見渡してみる。
本当にそういう目的を意識して生きている人が、どれだけいるだろうか?と。
残念ながら、ごくごくわずかな人々のみだろう。
悲しくなるくらいに。

弘法大師空海の偉大な言葉

このことを想うときに、いつも弘法大師空海の言葉が脳裏に浮かぶ。
例の「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く」~というもの。
この空海の言葉は、この問いに対する(反語的意味合いでの)答えとなっていると思うのだ。
これは、空海著作『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』の冒頭に書かれた言葉だ。
その前は、こう続いている。

牛頭(ぎょうとう)草を嘗(な)めて病者を悲しみ
断菑(だんし)車を機(あやつ)って迷方(めいほう)を愍(あわれ)む
三界(さんがい)の狂人は狂せることを知らず
四生(ししょう)の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
             −弘法大師空海『秘蔵宝鑰』より


※上記で最後の1行は忌み語であるため、割愛しています。


Saint Kobo Daishi
三界は仏教用語で、衆生(この世に生きとしいけるもの全て)が生々流転する3つの迷いの世界である、「欲界」「色界」「無色界」を指す。
四生も仏教用語で、あらゆる生きものを生まれ方の違いによって四分類したもの。
その四分類とは、母体から生まれる人間・動物(胎生、たいしょう)、卵から生まれる鳥類(卵生、らんしょう)、湿気の中から生まれる虫類(湿生、しっしょう)、よりどころがなく、自分の過去の業力(ごうりき)によって忽然と生まれるもの(化生、けしょう)がある。
ちなみに、最後の化生は、この世の生き物ではなく、霊や神仏の世界の住人のこと。


上記の空海の言葉は、こんな意味になると思う。

古代の神農(中国の神)は、草をなめて薬草をつくり病人をいたわり、
偉大な王は、道がわからぬ者に車をつかって迷える人々を導いた。
迷える世界の人々は、自分たちが迷い狂っていることを知らない。
あらゆる生き物たちは、自分たちが何も見えていないことを知らない。
何度も何度も生まれ変わってきても、その理由を知らず、
何度も何度も上天していっても、それから後のことは全くわからない。


その更に前後の文章とその現代語訳は、下記のページで読むことができる。

狭き門より入れ

この現代の世の中で、人々は
利潤の追求とか、
美食の探究とか、
私財の蓄積とか、
快楽の追求とか、
彼氏の交代とか、
そういう、
どーでもいいこと
…とまでは言わないが、
本質的でないことばかりに時間を割いて、
この世に生まれてきた本当の目的を忘れ去って、
この世を離れていく。


いわゆる「三界の狂人」や「四生の盲者」が、生まれてくることと生を終えることの本質的な意味を悟ろうとしないことを諌(いさ)めている、痛烈な警句なのだ。


「狭き門より入れ」と、イエスさまは言った。
ちなみに、空海は唐でイエスさまの教え(景教)を学び、更に真言密教にその本質を持ち込んだ可能性がある。
あの故司馬遼太郎氏も『空海の風景』で、その可能性を示唆していた。
ある本によると、高野山の僧侶が「うちは単なるグレた景教にすぎないんです」とつい口走ってしまったとか。
Jesus


なぜ「霊性の探究」に眼を向ける人が少ないのか。
それは、真理に至る門は狭いから。
「気づき」に至る門は狭いから。
狭き門より入ろうとする人が、現在この世にどれだけいるというのか。
先が見えすぎる人々は、ただひとり、孤独な道を先に歩まなければならない。


たとえ、共感をもってくれる人が周囲に皆無でも、
たとえ、昨日の夜のTVの話題についていけなくても、
たとえ、マイミクの数が減っても、
たとえ、KYと言われても、
狭き門より入る者、幸いなり。


空海の風景〈上〉 (中公文庫)

空海の風景〈上〉 (中公文庫)

空海の風景〈下〉 (中公文庫)

空海の風景〈下〉 (中公文庫)


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