探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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新潟県中越地震から2ヶ月たって


今夜19:00からNHKテレビで、『被災地はいま・復興にかける』という番組を見ている。
新潟県中越地震が発生してから今日で2ヶ月目。地震被災した地域の人々は、いまどのように生活しているかを報告したものだ。

家が崩壊して、建て直しを決めた男性。
一人暮らしで家を失って、県営住宅に入ることができたお婆ちゃん。
いろんな立場の人々が、それぞれの苦労を語っている。
私はといえば、「明日は我が身か」という気持で番組を見ていた。
そういう中で、番組に出演していた何とかという作家(?)から、聞き逃せない言葉が出た。
それは、新潟だけが地震で苦しむなんて「不公平だと思います」という言葉だった。なぜ他の地域ではなくて、新潟の人々だけが、こんな被害に遭わなければならないのか、ということだ。

そう思いたい気持はよくわかる。まして、そこが自分の故郷だったりすれば尚更だ。
だが、それは違うと思う。
この世に「偶然に」起きることがあったら、それこそ不公平だろう。
今回は新潟だったが、次はどこで大地震が起きるか、わからない。
人間の一生を考えてみると、ある人は、経済的に何一つ不自由しない家に生まれ、「良い学校」へ入り、「良い会社」へ就職し、不自由のない裕福な暮らしをする。
だが、ある人は、生まれながらに身体的に障害を背負ったり、父親が酒乱で家族に暴力をふるう家庭のもとに生まれたりする。
この違いは、どこから来るのか?
その答えは…、スピリチュアルな世界を歩む人々にとっては書くまでもない自明の理だろう。

いったい宇宙創造主は人間たちを不平等に扱うだろうか?
そんなことは、絶対にないだろう。
創造主は、人類すべてを平等に扱い、平等に愛しているはずだ。
ある地域の人々には地震のような自然災害で苦しめ、別の地域の人々には絶対に自然災害のない自然を与える、というようなことはない。
ある地域で、自然災害などで苦しむ人々がいるとすれば、それは、その地域に住む人々すべてに、ある種の「責任」があるのではないだろうか。
ある土地に住むようになるということは、その人自身のその土地に対する縁があったりとか、先祖の縁があったり、あるいは過去生のどこかで縁ができた神とのつながりかもしれない。
ある土地に住むようになることは、偶然で起きるようなことではないのだ。やはりそこには、過去生から住んでいたというような理由があるようなのだ。
地震が起きるような土地に住むということは、その人自身に、そうなるような何かをもっているからだと思うのだ。

自然災害ではないが、沖縄という地では琉球王朝の時代より常に戦いの繰り返しで、そういう歴史があるからこそ、第二次世界大戦でも多くの戦死者を出したのだという。
地震という災害が発生する条件となる地震エネルギーが蓄積しているとすれば、それを消滅することはできない。
だが、大地震が起きるべく蓄積されたエネルギーを分散させて、小さい地震が何度か発生するようにできれば、大難が小難で済むというようなことはあるだろう。
だからこそ、祈るという行為が必要になってくるのではないか。

いまやっている番組で、新潟の避難所で長期間暮らした人が、助け合いの精神を学んだようなことを言っていた。
災害から学ぶべきこともあるのだ。
神がこの世に起こすことに、意味がないことはないと思う。
ある同じ体験をした人々の中で、ある人はその体験から人生で重要な何かを学び、ある人は自然を恨み、自分の境遇を恨んだが何も学ぶものはなかったかもしれない。
人生に対する態度如何で、あらゆることが「学習」になりえるのではないか。

我が師曰く、この世は修行の場なのだという。
「学習の場」と言い換えても良いだろう。
学習すべき何かをもたずにこの世に生まれてくる人など、いないだろう。
もしいたとしたら、それは生まれてくる必要もないのに特別な目的をもって生まれてくる「神の子」かもしれない。
だから、自分が人生で体験するあらゆることは、「学習」のためなのだ。
何を学習すべきかは、人それぞれで違うだろう。
だから、体験させられることも自ずと異なってくる。

個人レベルの話になれば、たとえばある地域の人々がすべて同じような被害に逢うわけではない。
ある家では少ない被害で済み、家族全員が無事だったかもしれず、またある家では家屋が全壊して死傷者が出たかもしれない。
その違いは、たとえば神仏への信仰の有無であるかもしれない。
ここでいう「信仰」とは、必ずしも特定の宗教団体に所属しているかどうかという問題ではない。
たとえば私事になるが、ある期間に東京で地震が起きることが免れなくなったとしても、私は東京から逃げ出すことはしないだろう。
宇宙創造主に対する確固たる信仰をもっているから、何も恐れることはないのだ。
正しい信仰をもっていて、尚且つ地震などの被害で死傷するとしたら、それはまた別の意味があるのだと諦める(明らめる)しかないだろう。
信仰とは、ご利益信仰であってはならないだろう。
だが、常に宇宙全体、世界全体の平和と調和を祈って、全体が良い方向に進むようにと祈りと活動を行っている人間にとって、「地震などの被害に逢いませんように」などと殊更に祈る必要はないのだ。
己の本務を尽くしている人間に対して、神々は援助の手を差し伸べるだろうから。

繰り返すが、「不公平」だと感じるのは、たんに宇宙の法則という知識に欠けているだけなのだ。
少なくとも私はそう思う。


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