探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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人類の未来(7)


「本質的なもの」へ向かうこと

地球に残された時間が限られていることがわかっている「霊性に目覚めた」人々は、趣味や快楽の追求に人生の多くの時間を割いたりはしないだろう。
これからの人間にとって意味ある価値基準は、「人生でどれだけ本質的なことにかかわってきたか?」ではないか。
たしかに趣味や娯楽は人の人生を豊かなものにしてくれる。
だが、そういうことに人生の貴重な時間をとられすぎて、今回生まれてきた最大の目的を忘れてしまっては、何もならないではないか。
私は若い頃に「音楽で世界を変えてやろう」と思ったことがあった。
いま考えると「若気の至り」だが、そのときは、そういう純粋な気持をもっていたということで、それで良かったのだと思う。
だが、ロックだ何だといっても、所詮は「芸事」の延長線ではないか。
芸事で世界は変えられないだろう。
それだけで誤解を招くならば、もって言ってしまえば、芸術とか武術とか「○道」を極めれば、たしかにある境地にはたどり着くだろうが、たとえば「聖者」になれるわけではない。
どうせ求めるならば、もっと高みを目指した方が良いのに決まっているだろう。

どうして弱者が虐げられるのか?

この連載を読んでくださっているある方からメールをいただいて、質問を受けた。
ご本人の了解を得て、ここにそのまま転載する。

いつも疑問に思っていることがあります。
どうして弱い立場の人がいつも犠牲になるのでしょうか?
環境悪化も拝金主義も、世界支配をたくらむ権力者たちが中心になっています。
悪いのはこの人たちではないでしょうか?
それなのに、地震で犠牲になるのはスマトラの人たちであったり、阪神淡路の時も下町の人たちだったりで、山の手の豪邸はそれほど被害は受けませんでした。
最近では、一見普通に見える人間の心までどんどん悪化して、子供たちや高齢者、女性が犯罪に巻き込まれて犠牲になる事件も多発しています。
神様のご意思はどこにあるのか。人類の未来はどうなるのでしょうか?

非常に純粋な心をもった方だということが、このメールからよくわかって、心を打たれた。
以下に、私なりの回答を書くが、これが絶対に正しい回答だとは限らないから、「こういう考えもあるんだな」ぐらいに受け止めてください。
まず、どうして弱い立場の人々がいつも犠牲になってしまうのかについて。
この質問は、要するに「なぜこの世では常に弱者が虐げられるのか?」ということだろう。
それは、そのような弱肉強食の世界を作り上げてきた我々人類が悪いのであって、他の誰が悪いわけではない。
人類の歴史を通じて、戦いで勝った者が負けた者を支配して社会を作り上げていったということに変わりはない。
これは、言ってみれば、われわれの世界を動かしているものが、「宇宙の父性(男性)原理」に偏りすぎているということに原因があるだろう。
そういう社会を作ってしまったのは、われわれ、あるいは我々の祖先たちなのだ。
男性優位の社会そのものに原因があるのだ。
だから、これからの世界では、男性女性でいうと、女性たちががんばって主導権を握るぐらいでないと、世界全体のバランスは取れないだろう。
また、神々の次元でいうと、「女神意識」というものが重要になってくる。
「父なる神」ではなくて「母なる神」にがんばってもらわないといけない。
「強さよりも優しさ」、「威厳よりも弱者への思いやり」だ。
戦争の本質である暴力性は男性原理によるものであって、母性原理が強くなれば、もっと他の問題解決方法が出てくるかもしれない。

「死は終わり」ではない

次に、世界が悪い方向へ進んでいるのは、世界を支配する一部の権力者たちのせいではないかということについて。
たしかに、たとえば戦争というものについて考えてみると、なぜ戦争というものがなくならないかは歴然としている。
戦争をすることによって利益を得る存在がいるからだ。
また、ご質問の方が書いているように、たしかに地震などの天変地異で被害を受けやすいのは、山の手のような高級住宅地ではなくて、下町だろう。
たとえば関東大震災の再来である南関東地震や東京直下地震が起きた場合に、液状化現象津波なども心配されている。

私が思うに、大地震などの天変地異は、決して神が「罰」として人類に与えるものではない。
罪と罰」ではなくて、「学習と習得」だと考えれば、それほど暗くならなくても済むだろう。
たとえば、ある地域に大地震が襲って多くの犠牲者が出たとしても、亡くなった方々が必ずしも罪深い人々だとは限らないだろう。
たしかに、正しい信仰をもっている人々には、なんらかの「知らせ」が来て、助かることが多いのではないかと思う。
だが、「死は終わりではない」という観点に立てば、大地震で亡くなっても、それは「マイナスの結果」ではないかもしれない。
私は、「生まれ変わりとカルマの法則」があると思っている。
30年以上にわたって霊的世界をさまよってきて、多くの霊的能力をもった人々に接したり、また聖者の教えに接してきた結果として、そういう結論に達したものだ。
だが、それは世界の宗教の教えからすると必ずしも普遍的なものではなく、生まれ変わりを説かない宗教もある。
だから、そういう論理を押し通すのは、ここではやめることにする。
一言だけ書いておくと、宗教というものに共通しているのは、生命の永遠性を説くものであって、生まれ変わりがある・無いということは、それほど致命的な相違ではないということだ。
宗教とは、その開祖たちが、その時代、その人種に合った教え方をするものであって、その教え方は絶対的なものではない。
数千年前に書かれた経典の教えは、現代に生きるわれわれにとって、必ずしも相応しいものではなくなっている場合もあるだろう。

少々脱線し始めたので軌道修正すると、天変地異で亡くなる人々は、必ずしも「神の罰」によって命を落とすわけではないだろう、ということ。
私は生まれ変わりやカルマの法則を信じているので、そのモデルを借りて書くと、死ぬこともひとつの「学習の機会」であることもあるということだ。
本人に死ぬべきカルマがあって亡くなる場合もあるだろうし、そうではなく亡くなった場合は、また別の人生で、今生で成し遂げられなかった目的を果たすべく、速やかにまたこの世に生まれてくるのかもしれない。

長くなってしまったが、要するに「死は終わり」だと思っている人にとっては、天変地異で亡くなることは致命的な災難だと受け取るだろうが、そうではないのだということだ。

なぜ悪い者たちがのさばっているのか?

これだけでは質問された方への回答になっていないだろうから、さらに続ける。
「この世界では、なぜ悪い人間たちがのさばっているのか?」ということについてだ。
それについては、実はこの連載ですでに答えを書いているのだ。
創造主はこの世界で、多くの魔的存在をはびこらせていて、それも一つの「神の計画」であるらしいのだ。
「物の力」がもつ原理によって、物の原理にとらわれた人々や、宇宙が良い方向へ進むことに抵抗する魔的存在たちを自由にさせておいて、最終的には自分も壊れてしまうのを待つということらしい。
そういう状態のあとで、神の力が物の力を秩序ある状態へと至らしめ、最終的には「神の国」がこの物質世界に実現する、というのが神の計画であるらしいのだ。

人を裁くのは、人ではない。
本当の意味で人を裁くことができるのは、神(創造主)しかいないのだ。
悪い人間たちは、いずれその行いに対応した償いをさせられるのだ。
だから、神さまに任せておけば良いのだと思う。
「誰も見てないから悪いことをやってもいい」というのは大間違いだ。
スピリチュアルな世界に目覚めた人ならば、そんなことは思わないだろう。
この世には目に見えない存在がたくさんいて、ご先祖さまも神々も仏も精霊も、そして創造主も、みんなあなたの行動を見ているのだ。
「正直者が馬鹿を見る」というのは、この宇宙の法則には無いのだ。
「裁きの日」は、いつか必ず来る。
万が一そうでないとしたら、この宇宙はあまりにも理不尽だ。
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