ぼくが師と仰ぐ本山博先生が『祈りと救い』という本を書かれていて、それを参考にしつつ、自分の意見を取り込んで、「祈る」ということについて、しばらく考えていきたいと思います。
ちなみに、断るまでもなく、特定の宗教信仰を推奨するものではまったくありません。
祈りというものは、ただ闇雲に祈ればいいというものでもないですね。
カミンチュー(琉球の神人)たちがよく「お通しする」という表現を使うけれど、お祈りが通るかどうかが大切です。
では、祈りを通せるようにするには、どうしたらいいか。
それは一朝一夕にはいきませんね。
過去生から多くの修行を積んで、少しずつ培ってきたものでしょう。
ぼくなんて、祈るということについて人に教えられるものはないかもしれないけれど、自分の経験によって形作ってきたものを、参考までに紹介します。
祈る対象
まず、祈る対象は誰かについて。
「祈る」という行為は、必ずしも特定の「信仰」がなければできないものでもないですね。
ただし、祈る「対象」がなければ空しい行為に終わってしまうかもしれず、たとえば「鰯の頭」に対して祈っても無意味でしょう。
信仰をもっている人はもちろん信仰する神仏に祈り、特定の神仏に対してつながりがない人は、たとえば宇宙創造神に対して祈れば良いでしょうね。
祈る場所
次に、どこで祈るべきかについて。
特定の神仏への信仰、あるいはある神仏に縁がある人は、その神仏が祀られた神社仏閣へ行って祈るのが最も良いでしょう。
家に神棚や仏壇や、それ以外の祈る場所−たとえばヒヌカンや三方荒神−がある場合は、その前で祈れば良いでしょう。
私の先生によると、たとえ位の低い神霊や神々の世界の存在であっても、たとえば世界平和のような「大きなお祈り」をすると、その存在も一緒になって、より高次の神へ祈ってくれるそうです。
ぼくはある神社を信仰していますが、そこでは宇宙創造神をお祀りしています。
その神社では、うちは宇宙創造の神を祀っているから、その信徒は他のどんな神社仏閣へお参りしても問題ないのだと教えています。
個人の願い事をしない限りは、どこへお参りしても良いのだ、と。
そういう神社なので、信徒は家に帰ったら家に代々伝わる神仏をよく信仰しなさいと言われます。
たとえばうちの場所は禅宗の曹洞宗ですから、その宗派の方法にのっとった方法で先祖供養などをします。
そういうわけで、信徒の中には、たとえば仏教の高僧だったり、キリスト教の神学校の先生がいたりと、他の宗教をよく信仰している人々もたくさんいます。
そういう意味では、普通に言われる意味での宗教団体のあり方とは、かなり違うでしょうね。
他の宗教団体に入ってる人はダメとか、他の宗教の教えはみんなダメとかいうような排他的なところが全然ないし…。
でも考えてみると、神道の神社とはみんなそういうものですね。
仏教や他の宗教をも包み込む包容力みたいなものがあります。
それと、やっぱり宇宙の最高神を祀ったところだからこそ、こういうことが許されているのだと思います。
我が師いわく、宇宙創造神は、いろんな宗教でいろんな名前で呼ばれているが、大元は同じであり、ときには大宗教の開祖の下に降りられたり、ときには道端のお地蔵さんのところに降りられたりもするそうです。
今日はこの辺にしておきます。
土日に、滝行入門に参加してくるので、次回は帰ってきてからにします。
長野県の軽井沢の近くの、浅間山の麓にあるお寺で修行してきます。
- 作者: 本山博
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【続く】