※これは連載『祈りと救い』の番外編です。できたら第1回分から読んでくださいね。
過去に5回に分けて連載した『祈りと救い』ですが、新月の世界平和のお祈りをしたときなどに感じることがあって、まだ書き足らないことが残っているので、加筆します。
祈りはエネルギー
祈るということを、何か抽象的な行為であるかのように思っている人は多いのではないでしょうか。
でも、本当は違うんです。
祈りというのは、別の世界では、ひとつのエネルギーです。
アストラル次元の迷える霊的存在にとっては、お経を唱えたり祈ってあげたりすることは、そういう存在たちに元気を与え、即「魂の栄養」になるものです。
ローソクは暗闇に灯る道標であるし、行く先を示してくれる灯台のようなものでもあるでしょう。
このように、宗教的儀礼のひとつひとつには意味があり、決して無駄な行為ではないのです。
祈りは、一人でするよりも複数の人々の祈りが合わさった方が、より力が強まります。
聖地で祈れば、より強くなるでしょう。
祈りは、時には霊たちや神々を元気にさせるための行為なのです。
祈りを通す
昨日、かみんちゅネットワークの呼びかけで、皇居に行って世界平和の祈りをしてきました。
そのときに集まった方々を見て感じたのは、こういうことを進んでするような人たちは、みんなピュアな魂をもっているんだなということでした。
祈りを通すには、子供のような純粋さが必要です。
宮古島のあるカミンチューは、祈りを通すには、優しい心をもっていないとダメだと言っていました。
優しい心、素直な心が何よりも大切なようです。
「自分が、自分が」という我が強いと、祈りはなかなか通らない(神仏に届かない)ものです。
新月と満月
世界各地のお祭りには、新月か満月に行われるものが多いですね。
祈りに関していえば、それだけ祈りの力が強まるのが、この期間でしょう。
新月・満月だけでなく、月の運行に沿って、特定の日に祈りを捧げるということもあるでしょう。
やっぱり旧暦というものは大切ですね。
沖縄の人たちは、そのことをよくわかっているでしょう。
沖縄の信仰に関する年中行事の多くは、いまだに旧暦によって行われます。
私は若い頃から、満月の夜になると眠れなくなったり、情緒不安定になったりしていました。
だから、満月には厳格に肉類や眠れなくなる食物を避けていました。
そんなことは人に言ってもわかってはもらえず、そのことだけではありませんが、いつも孤独を感じている人間でした。
今ではそうではありませんね。
そういうことを理解してくれる人たちが、少しずつ増えてきています。
月の影響力に敏感な人たちも含めて。
供物
場合によっては、祈る際に神仏に供物を捧げた方が良いときもあるでしょう。
つい昨日も、江島神社の龍宮の前で世界平和の祈願をしてきましたが、守護霊(守護神)の指示によって、供物をお供えして祈りました。
神仏に対して何か特別なお願い事をするときには、やはり供物をお供えした方が良いでしょうね。
みなさんは、おうちの仏壇や神棚に供物を捧げますね。
あれも、抽象的な行為ではありません。
人間は、複数の次元で同時に生きている多重的な存在です。
たとえば霊界と呼ばれるアストラル次元(アストラル界)ではアストラル体(アストラルボディー)という身体をもっています。
たとえばアストラル次元で生きているご先祖さま方は、仏壇に供物をお供えすれば、その食物がもっているアストラル次元のエネルギーを食べるのです。
霊的存在が食べた供物は、アストラル次元でのエネルギーがなくなっているのです。
神霊や神々のような存在についても同様です。
ただし、プルシャの次元(神界)以上の神々や宇宙創造神については、すでに霊的存在がもっているような「身体」というものがなく、本来は食べ物を食べる必要もないんですね。
でも、そういう神々にも供物を供えるのは、それなりの理由があるのでしょうね。
たとえば迷える霊たちにその供物を与えるのかもしれません。
施餓鬼(せがき)という風習がありますね。
施餓鬼供養とか施餓鬼会(せがきえ)とも言いますが、あれはもともと、餓鬼道(がきどう)に墜ちた亡者に食べ物を施す法要です。
餓鬼道に限らず、霊界でさまよっている霊たちに供物を施してあげるのは、自分自身が徳を積むことにもなります。
仏壇の供物でも施餓鬼でもそうですが、お供えは形式的にではなく、たっぷりあげると良いでしょう。
沖縄の人たちはそのことをよくわかっているみたいです。
本土の仏壇にお供えするご飯やお茶は、ほんの申し訳程度だけど、沖縄ではそうではありませんね。
仏壇にお供えするウブク(ご飯)にしても、量が多いですね。
いかに本土の宗教儀礼が形式的なものになってしまっているかという、ひとつの良い例かもしれません。
【続く】