探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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祈りと救い・番外編(2)


※これは連載『祈りと救い』の番外編です。できたら第1回分から読んでくださいね。

心身を清浄に保つ

お祈りをするときには、たとえ自宅の神棚やヒヌカンの前で祈るときにでも、心身を清浄にたもつ必要があります。
言うまでもなく、特に神道ではケガレということを嫌いますね。
神社では、手水舎で手と口を洗い清めますね。
また、たとえばイスラム教では、礼拝の前に手と足を洗い清めます。
そういえば、インドネシア・ジャワ島で働いていたときに苦い経験があります。
あれはたしか、世界遺産になっているプランバナン寺院群へ、世界平和と大日対戦で亡くなった人々の供養の祈りに行ったときのことです。
ちょっと変なのを連れて帰ってしまったみたいなんですね。
で、数日間は、頭の中を引っ掻き回されているような状態でした。
たまらずに、ドゥクン(ジャワ島のシャーマン)に助けを求めに行きました。
そのときに言われたのが、「清め方が足りないからそうなったんだ」ということ。
たとえば、夜に男女の営みをして、翌日に聖地などを訪れる場合は、必ず頭から足の先まで水で清めなければならないと言われました。
当時はジャワ人の婚約者がいて、彼女と同居していたんです。
なんだか変な話になってしまいましたが、清めというのは大切なことだという話でした。

それから、聖地などへ行ってお祈りするときには、いくら体を浄めても、服装がだらしない格好ではいけませんね。
よく神社へ短パンやノースリーブやサンダル履きみたいなラフな格好でお参りしている若者たちがいますが、そんな礼儀知らずでご利益を得られると思ったら甘いのではないかと思います。
本来、大切な行事で神社にお参りするときには、男性ならばスーツを着用しますね。
ぼくが聖地巡礼の旅に出るときには、さすがにスーツ姿では都合が悪いので、ラフな格好で失礼させてもらっています。
たとえば夏場ならばバティックシャツを着ることが多いです。
これはラフそうに見えても実はインドネシアの正装であり、またバリ島のものでは魔除けの柄などが染められていたりするので、その効果も狙っているんです。

断食

これは「must」なことではありませんが…。
ぼくが聖地巡礼で神社仏閣にお参りするときには、いつかしら断食していくようになりました。
そういう風にさせられるようになったというか。
経験上言えることは、断食状態の方が精神が集中できて、祈りがよく通るということです。
朝から何も食べずに飲み物だけ飲んで、たとえば3時とか4時まで聖地巡礼して、終わったあとに昼食というパターンが多いですね。
でも、ぼくはもともと、ものを食べないでいても平気な人間なんで、そんなに苦ではないんです。
もっとも、おなかがすきすぎてお祈りにならなかったら、逆効果ですね。
お祈りというのは、もともとハングリーな精神のもとで行うべきもので、満腹状態で祈るものではないと思います。

楽をしてはいけない

だんだん「祈りと救い」というか聖地巡礼マニュアルみたいになってきてしまいましたが、もうちょっとで終わりです。
有り難い聖地としての神社仏閣にお参りするとき、目的地にたどり着くまでに、あんまり楽をしてはいけないというのがありますね。
たとえば、ついこの間お参りした江ノ島江島神社には、『エスカー』という乗り物があります。
乗り物というか、要はエスカレーターです。
それに乗っていけば、長い石段を登らなくても済むというものです。
でも、よっぽどお年よりとか身体が不自由な方以外は、そういうものに乗ってお参りして、果たしてご利益が得られるかどうかは疑問があります。
ぼくが聖地巡礼をするときには、極力目的地まで歩いて行くようにしています。
聖地というのは、そこまでたどり着くまでもが一つの「行」なんですから、その過程をあんまり省略しすぎは問題あるということです。

自分を偉いと思ってはいけない

たとえば世界平和の祈りなどを無私の行為として行うことは立派なことですが、そういうことをやる自分が「偉いんだ」という気持がどこかにあったのではまずいですね。
そういう行いはたしかに尊い行為だけど、どこかに偽善的な自分があったのでは、そういうことを続けていくに連れて、どこかでおかしくなっていってしまうのではないかと思います。
人の幸せを祈る利他的な祈りにしても、霊を救いたいという祈りにしても、祈っている自分をも超えて超越的な存在と一体になるための行為であるべきです。
心のどこかに「可愛い自分」があっても、それを否定した境地にたどり着くことを目標にすべきでしょう。
これを書いている自分自身も、常に戒めなければならないことです。
神々に導かれた人生を歩んで、さまざまな人助けなどをしているような人でも、じつはカルマ的要因があってそういうことをさせられているのかもしれません。

人間にはさまざまなレベルの霊的成長の段階があり、人それぞれ立っているところが違います。
「自分はここまで来たのだから、もういいだろう」と思ったら、その人の霊的成長はそこでストップします。
常に存在の高みへ高みへ上りたいという意識をもち続けたいものですね。


【いちおう終わりかな】


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