今日、MySpace.comでのフレンドの数が200人になった。
どういうわけか、日本人は少ない(アーティストを除く)。
スピリチュアル関係の交流が少しずつできてきつつあるので、これからどうなるか楽しみだ。
今日は別のSNSの話。
女性専用車両の実態
MySpaceを漂流していて、ある人のブログで、面白い記述を見つけた。
女性専用車両では、ケンカが起きやすいというのだ。
ほんとにそうなのかと、ネット上で探したら、こういうページも見つけた。↓
ネット上で目についた複数の女性の意見によると、このようなことになりやすいのは「男の目がない」からだそうだ。
女性とは、そういうものなのだろうか。
「オンナたちの無法地帯」という声もある。
女性専用列車には乗りたくないという女性もいるようだ。
まあ理由はいろいろのようだが。
下記のレポートには、専用車両の女性たちは「油断しっぱなし」という記述も。
そうか…女性たちはそれだけ普段社会に出ていると、ストレスが多いのかな。
まあでも、最近の若い子たちとか、普通の車両でも平気で付けまつげ付けたりしてるし、そういう女性たちにとっては、日常生活すべてが「油断」になってるかもしれない。^^
あくまでも個人の嗜好の問題だが、「恥じらいのない女性って何?」と思う。
人の視線
女性に限らず、人間歳をとると傍若無人になるというか、人の目をはばからずになんでもやってしまうという傾向が強くなるように思うのだが。
これはちょっと視点が偏っているだろうか?
日本人というのは、特別に「人の視線」が気になる民族のようだ。
ということは、逆に考えれば、「人に視線を向ける人々」が多いということでもあるだろう。
週刊誌の芸能界のゴシップなども、そのようなエネルギーで成り立っているように思える。
冷静に考えると、本当に「くだらない」エネルギーなんだけど。
1994〜1995年にインドネシアに滞在していたときに、ジャワ人にもそのような要素が強いことを知って、日本人と似ていると思ったものだ。
人が見ていないと
人間というものは、その本性として「人が見ていないところでは悪いことをやっても構わない」という個人的側面があるように思う。
それと同時に、そのような行動を抑制する原理として、良心や倫理観という社会的側面も持ち合わせている。
どちらが多いか少ないかの違いはあっても、両者は誰にでも内在しているものだろう。
また、後者の力を促すものとしてあるのが「信仰心」だろう。
たとえ「人」が見ていなくても、「見えない存在」によって見られているという気持ちは、悪事を抑制するための強い力となっていただろう。
いまの日本の社会がどうしようもなくなりかけている理由として、前述の「良心」や「信仰心」の欠如というものが一つにはあるのではないか。
殊更に日本と書いたが、広くは世界全体がそういう傾向に流れていっているように思う。
このような傾向が止まらない限り、地球は創造主によって見放されてしまっても無理はないかもしれない。
匿名性
「人が見ていないと」で思い出すのは、ネット上での匿名性の問題。
匿名性が強いネット上のメディア…掲示板とか動画サイトとかを見ていると、誹謗中傷とまで行かなくても、言葉使いがぞんざいになったりするようだ。
「ああはなりたくないものだ」と、強く思う。
Wikipediaの「匿名」の項には、こういう記述がある。
匿名性は悪事を助長しかねない一面がある。自分が誰であるのかを特定されなければ、後で自分の言動に対する責任を追及される危険が無いので、匿名であるのをよい事に、他人を誹謗中傷するといった悪事を行う者が現れかねない。
たしかに、匿名を用いることによって自分への攻撃のリスクは低減できるだろうが、人への攻撃のしやすさも増すという嫌いがある。
一時期、mixiのコミュで「書き逃げ」がよく目に付いた。
人に対する誹謗中傷の書き込みをするために、わざわざ新たなアカウントを作って、悪意のある書き込みをして、即退会するのだ。
すると、その書き込みは残るが、書き込んだ本人は誰だかわからなくなる。
察するところ、自分で自分を「招待」して、別のメールアドレスでmixiの会員になって、そういうことをするのではないか。
もし本当にそういうことをやっているとしたら、かなりのエネルギーを費やしていることになる。
かつてユングが言っていたように、良くも悪くも、感情とは本当に「エネルギー」なんだなと実感する。
匿名性という点では、かつてのmixiは、本名を名乗る人の割合が比較的多かったりして、人間関係の点で「信頼できる」と思われる要素が多分にあった。
だが会員数が激増してからは、普通のネット上での関係と変わらなくなってきた。
それに連れてというか、人間関係のトラブルも増えてきた。
匿名性が強いメディアで生じることのひとつに、人間の中の「仮面性」が強調されるということもあるだろう。
現実世界の自分とは別の人間になりたいという欲求だ。
だいたい、プライバシーをさらけ出すのを恐れる人同士のやりとりは、得てして「虚妄な人間関係」になりやすい。
人それぞれ感じ方は違うかもしれないが、私はそのような関係にウンザリしかかっている。
私は長いネット暦の間、一貫して実名でものを書くことを通してきた。
たとえハンドルネームを使っても、プロフィールなどで本名も必ず書くことにしていた。
いろいろな理由があるが、ひとつには、「自分の言動に責任をもちたい」というのがある。
とくに、スピリチュアルな領域でものを書く際には、疑いの念をもたれやすいということもあるのだが。
Facebookが日本語化
昨日のYahooニュースで、こういう記事が目に入った。
Facebookは、MySpace次ぐ利用者数を有する世界2位のSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)だ。
世界で7000万人のアクティブユーザーがいて、その3分の2は米国以外のユーザーだという。
このサイトが日本語化されたという。
このSNSの特徴として、
- 実名登録を推奨し、リアルの友人同士の交流の場と位置付けていること、
- APIを公開し、外部開発者が自由にアプリケーションを開発できること
がある。
個人的には、「実名登録を推奨」という部分に強く関心をもった。
そして、昨日のうちにユーザー登録してしまった。
まだ色々見て回っていないが、mixiやMySpaceなど他のSNSと較べると、ちょっと勝手が違うという雰囲気がある。
登録のとき、本名を入力させて、自分の本名によって、リアルワールドでの友人を探すというやり方を取っている。
「ネット上で人と知り合う」
という発想ではなく、
「知り合いをネット上で探す」
というスタンスであるようなのだ。
7000万人という数を見ると、これは匿名性への反発(?)から来るネット上のひとつの流れなのかもしれない。
かつてのmixiも、「なるべくなら本名で登録してください」という前提があったようだが、いつからか、仮名で登録するのが当たり前のようになってしまった。
それを考えると、Facebookも日本ではそのうち同じようになってしまうのだろうか。
というか、それ以前に、日本では受け入れられないだろうか。
そのへんが、今後の動向に関心があるところだ。
Facebookのサイトはこちら。↓
もっとも、ユーザー登録しないと何にも見られないが。
mixiのような招待制ではないから、自分一人で登録することができる。