Yahooニュースで知ったのだが、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の坐像が99年ぶりに京都・清水寺で公開されているとか。
- 99年ぶり 坂上田村麻呂の坐像を公開
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20090228-OYT1T00564.htm/?1235907131
清水寺のサイトを見ると、こうあった。
開山堂御開帳
本願・坂上田村麻呂公一千二百年御遠忌にあたり本堂及び開山堂を御開帳致します。
平成21年3月1日(日)〜同年5月31日(日)
田村麻呂公の一千二百年御遠忌にあたるから、特別公開ということのようだ。
平安時代に征夷大将軍になって指揮をとり、東征して蝦夷を討った人物だ。
この人が、清水寺を創建したと伝えられている。
このブログでは、何度か紹介している。
下記の記事に書いたように、東夷出征の際には、諏訪大明神に戦勝を祈願して、各地に勧請したと伝わっている。
じつはこの人、赤毛でかなり身長が高く、日本人離れした風貌だったらしい。
坂上氏といえば、渡来氏族の東漢氏(やまとのあやのうじ)をルーツとしていて、阿耶(伽耶)から渡ってきたという。
もっと遡れば、西域にルーツがあるのかもしれない。
坂上氏=サカ族(スキタイ系)という説もあるが、これだけでは言葉の遊びで終わってしまうので、本当のところはわからない。
東漢氏は秦氏と同じく応神天皇の時代に、秦氏と同じ伽耶から渡来してきたということで、怪しいところがある。
そういう氏族から出た人物がなぜ諏訪信仰をもっていたのかが、気になるところだ。
京都は平安京の昔から、渡来人が多く住んでいた。
中には色んな目や髪の色をもった人や鼻の高い西域人も、歩いていたかもしれない。
その頃からすでに「国際都市」だったのだ。
京都という街は、いまも昔もそう変わっていないのかもしれない。
平安京というのは、秦氏あたりがヘブライ語で「平安の街」を意味する「イェルシャライム」(エルサレム)を意識して名づけたと言われている。
「Yerushalayim」の「yeru」は古代セム語で「都市」の意味で、「shalayim」は後にヘブライ語の「shalom」と転化したが、セム系諸族の神名から転じて「平安」を意味するようになった。
本当の意味で戦いのない平安の都になるまでには、千年以上の歳月が必要だったのだが。
それが秦氏の夢だったのだろうか。
皮肉にも、本家の「平安の都」の方は、いまだかつて平安が訪れたことがない。
早く戦争が終わってほしいものだと思うが、聖地をめぐる宗教的な対立がなくならない限りは難しいだろう。