昨日2009年4月10日は、天皇皇后両陛下の御成婚50周年記念日だった。
1959年4月10日、当時の皇太子明仁親王殿下は、民間人の正田美智子さまとご結婚された。
この記事では、誰もが知っていることは書かない。
美智子皇后について、あまり知られていない「秘密」を紹介したい。
天皇皇后両陛下の50年は、私の前半生と重なる。
50年前のこの日、私はまだ2歳だった。
当時は東京・千駄ヶ谷の借家住まい。
御成婚式を見るために、わが家は初めてテレビを買った。
あの頃はまだ高価なものだっただろう。
自分で思い出せる最古の記憶かもしれない。
チャンネル切替がダイヤルではなくボタン式で、カチャカチャ押して遊んでいたのを、微かに覚えている。
悲しいこと、つらいこと
10日の記念日に先立つ8日の夕方に、両陛下の記者会見が行なわれた。
昨日の朝日新聞朝刊で、会見の全文が掲載されていた。
特に印象深かったのが、陛下の美智子皇后に対するこのお言葉だった。
本当に50年間よく努力を続けてくれました。その間には、たくさんの悲しいことやつらいことがあったと思いますが、よく耐えてくれたと思います。
- 両陛下、結婚50年 「感謝の気持ちで迎えます」(asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0409/TKY200904090266.html
陛下は会見の席上、言葉を詰まらせる場面もあったという。
テレビを見逃したので、どこの場面だったのかはわからない。
会見記事を読んで、心にこみ上げるものがあった。
50周年の記念すべき会見で、なぜ陛下は殊更に「悲しい」とか「つらい」というお言葉を使われたのか。
そう言わざるを得ない、辛いご経験が、皇后さまにはあったに違いない。
それは何だったのか。
それをこれから推理していきたい。
陰湿ないじめ
まず、明治以降初めての民間出身の皇太子妃ということで、かなりのご心労があっただろう。
皇族や女官に受け入れてもらえず、旧皇族・旧華族の婦人たちからも非難され続けてきた。
また、そのたぐい稀なる美貌も、上記の女性たちの嫉妬の原因となっていたに違いない。
美智子妃殿下(当時)は、結婚1年目の記者会見で、こう言われている。
難しい事も沢山ありましたし、辛い事もあります。
いつになったら慣れるのか見当もつきません。
(中略)
八方塞がりのような気持ちになることもあります。
「八方塞がり」になった大きな原因の一つは、推測できる。
昭和天皇・皇后陛下がご存命のとき、訪米されたことがあった。
その出発に際して、羽田空港に各皇族や大臣らがお見送りをした。
両陛下は一人一人に会釈または挨拶しながら進んだ。
だが良子皇后は、美智子妃殿下には目も合わさず、無視して通り過ぎた。
国民の多くは、テレビに放映されたこのシーンを見て「ああやっぱり」と思ったことだろう。
別府事件〜日本の一大事
以前にも紹介したが、皇室について書かれたショッキングな本がある。
『天皇のロザリオ 日本キリスト教国化の策謀』(上/下巻、鬼塚英昭、成甲書房)
2年前の記事で簡単に紹介していた。
- 頭痛・美智子皇后・etcComments
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20070811/iroiro
この本では、ほとんど知られていないが、日本の命運を左右する出来事を紹介している。
戦後間もない日本で、マッカーサー元帥とカトリックによって、昭和天皇が危うくカトリック教徒にさせられそうになったというのだ。
著者が「別府事件」と呼ぶ一連の出来事は、非常に説得力ある形で描かれている。
1949年6月8日、昭和天皇が九州巡行をされた歳に、大分県別府市のカトリック系小百合愛育園をご訪問された。
その裏では、マッカーサーと吉田茂外相(隠れカトリック信徒)とカトリック教会によって、天皇を愛育園の礼拝堂で礼拝させようというシナリオが仕組まれていた。
当初は礼拝堂へは入らず、入口からご覧になるだけという予定だった。
だが園長のソラリ・カルメラ女史は、天皇を中ほどまで案内し、あわや礼拝をお奨めしそうな雰囲気だった。
そのとき、宮内庁の課長が機転を利かせ、大きな声で「陛下、どうぞこちらへ」と呼びかけ、陛下はきびすを返して礼拝堂の外へ出られた。
この鶴の一声によって、「策謀」は成功の寸前で失敗に終わった。
この咄嗟のお声かけがなかったら、陛下はロザリオをかけられて、十字架の前で礼拝していたことだろう。
そして、「エンペラーヒロヒト、カトリックに改宗」というニュースが世界中に流れることに。
天皇はそれに対して、意義を申し立てることはできなかっただろう。
米国は、戦争で負かした日本を、フィリピンのようなキリスト教国にしようとしたのだ。
そして、神道と仏教はきっと禁止されていたことだろう。
ちなみに、『天皇のロザリオ』は上下巻で900ページ近い大著で、気軽に読んでみようという本ではない。
また私はその内容のすべてを受けて入れているわけではない。
宮中聖書事件
上記記事でも書いているが、著者によれば、今上天皇と美智子さまは、キリスト教への「信仰」をもたれているのだという。
皇室では、ユダヤ教とキリスト教の信仰に関する何らかの言い伝えがあるのかもしれない。
『天皇とロザリオ』では、世に伝えられる「宮中聖書事件」をも紹介している。
それは、美智子さまが皇室に入られて数年後に起こった。
常陸宮(ひたちのみや)殿下(昭和天皇の弟君)が昭和天皇と食事をされたときに、「美智子さんが(皇室に)入ってきてくれたおかげで、キリスト教の話ができるようになって非常に嬉しい」というようなことを、陛下に話してしまった。
これを聞いた天皇は激怒された。
美智子妃殿下を呼びつけられ、「二度とふたたび皇室の中でキリスト教の話をしないでくれ」と言われた。
じゅうたんに土下座されても、天皇の怒りは収まらなかったという。
美智子さまの祖父母は、共に熱心なカトリック教徒だった。
ご本人はクリスチャンにはならなかったものの、ミッション系の聖心女子大学でカトリック信仰について多くを学んだ。
そして、常陸宮が美智子さまからキリスト教について「いろいろ教えられた」と言わせるほどの知識と熱心さをもっていた。
この事件は、美智子さまが皇太子に嫁がれて5年目に起きたといわれている。
その年の3月20日、御懐妊されていた美智子妃殿下は、異常妊娠によって流産の処置がとられた。
病名は胞状奇胎といい、極度の心身ストレスが原因でそうなることもあるという。
天皇が激怒されたことが、そしてキリスト教の「信仰」を封じられたことが、かなりショックだったのだろう。
別府事件のときには、あれほどキリスト教に対して親和的なところを示されていた天皇が、どうしてこのような態度を取ったのか。
恐らく、昭和天皇はカトリックやマッカーサーによる「策謀」によって、大のキリスト教嫌いになられていたのではないか。
危うくカトリック信徒にさせられそうになったことが、心に重いトラウマとして残っていたのだろうか。
仕組まれた「テニスコートの恋」
鬼塚氏によると、当時の明仁皇太子と美智子さまを結びつけた「テニスコートの恋」も、じつはお膳立てされた出会いだったという。
1955年当時、慶応大学の元塾長でクリスチャンだった小泉信三氏が、皇太子のお妃選びの中心人物となっていた。
そこで皇室の周囲のキリスト教コネクションが動いた。
小泉氏は、よく知っている正田家の娘を皇太子の妃にしようとしたのだ。
そして、聖心女子を卒業したばかりの美智子さまを、軽井沢で行なわれたテニストーナメントに参加させた。
そして、彼らの計画通り、皇太子は美智子さまに「一目ぼれ」した。
その後は、国民の知る通りのストーリーだ。
じつは美智子さまは、故三島由紀夫氏とお見合いをされたことがあった。
三島氏の美智子さまへの片思いは、亡くなるまで続いたという。
だが、恋敵が皇太子とあっては、実らぬ悲恋は目に見えていた。
そのために、(鬼塚氏によれば)三島は男の世界へ向かった。
キリスト教への想い
常陸宮殿下は、昭和天皇の激怒の後でも、キリスト教を捨てようとはしなかった。
殿下は皇太子時代の今上天皇とともに、クエーカー教徒の家庭教師ヴァイニング女史のもとで聖書を学んだ。
そして明仁皇太子も、キリスト教的世界観の影響のもとで育っていった。
鬼塚氏によると、皇太子と美智子さまは、「キリスト教という絆で結ばれた夫婦」だったという。
だからこそ、昭和天皇が激怒されても、キリスト教を捨てることはできないのだと。
私も、それは十分にあり得ることだと思う。
今生天皇はどうかわからないが、少なくとも美智子さまについては。
生涯変わらぬキリスト教への想いを秘めているのだろう、と。
ユダヤ人の天皇学者ベン=アミ・シロニー教授の『母なる天皇』によると、天皇皇后両陛下は、キリスト教に対する好意的態度を示し続けているという。
1993年には両陛下がローマでヨハネ・パウロ二世と30分ほど語り合っている。
1981年の美智子皇后の誕生日での記者会見で、この1年間に印象に残った出来事はと聞かれた。
それは、2月にローマ法王が来日されて広島で平和の祈りを捧げられたことだと答えられている。
キリスト教について語られても、激怒される存在(昭和天皇)がいなくなってからは、「信仰」を隠す必要がなくなったのだろうか。
オトタチバナヒメへの想い
Wikipediaの「皇后美智子」のページに、興味深いエピソードが書かれている。
1992年秋の国体の開会式で、暴漢が天皇に凶器を投じた。
その時、美智子さまはとっさに片手を挙げて、天皇をかばわれたという。
この出来事について、美輪明宏さんはNHKのテレビ番組「美輪明宏の履歴〜テーマは無償の愛」でこう語った。
「これこそ最高の愛の形だと思う。一般の奥様方には到底真似できないことで本当にすばらしい。天皇様を思わずかばおうとなさった美智子皇后様に本当に感動しました。」
先日このページを読んで、「あ、これだ!」と思った。
何が「これ」かというと…。
美智子さまが感銘を受けたという、オトタチバナヒメ(弟橘媛命)の伝説だ。
1998年、インドで開催された「国際児童図書評議会(IBBY)」で、美智子さまは「子供時代の読書の思い出」と題して、ビデオによる基調講演をされた。
そこで、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)の妃だったオトタチバナヒメ(弟橘比売)の吾妻での入水の物語を紹介された。
講演の内容は『橋をかける』という題名で、各国にて出版された。
下記のページで、その記録を読むことができる。
- 第26回IBBYニューデリー大会(1998年)基調講演『子供の本を通しての平和』
http://www17.ocn.ne.jp/~hana2/shiryou/mitiko-kougou_kouen.html
皇后さまとオトタチバナヒメについては、2年前の下記の記事で紹介している。
オトタチバナヒメは、尊(ミコト)の東征に同行した。
そして三浦半島の走水(はしりみず)の海に至った時、海神の怒りを招いて、海が大いに荒れた。
海神の怒りを解くため、オトタチバナヒメは夫の身代わりとなって海に入水した。
すると波が穏やかになり、船を進めることが可能となった。
自らの命を犠牲として夫を助けた心に、若き日の美智子さまは感銘を受けたのだ。
その走水の地に建つ走水神社の御祭神(ヤマトタケルノミコト、オトタチバナヒメノミコト)を、うちでお祀りしている。
美輪さんが「無償の愛」と呼ぶ犠牲的行為に、美智子皇后も心を動かされるものがあるのだろう。
優しさと平和を求める心
天皇皇后両陛下は、どちらも月が魚座にあるときに生まれている。
この星回りで生まれた人は、弱いものに対する優しさをもっていることが多い。
また、霊的感受性も多分に兼ね備えている。
両陛下は、各地で自然災害があったときに、被災地へのお見舞いを何度もされている。
それは、単なる公務としてではなく、自らのご意思で行かれたことが多いのではないかと察する。
お二人の弱者に対する優しさや平和を求める気持ちの背後には、キリスト教の影響もあるのではないか。
いつも笑顔を絶やさない穏やかそうな陛下。
そして皇后さまはいつも寄り添うようにして、仲の良いお二人。
日本という国の象徴であるお二人が仲睦まじくされていることは、日本国民の心の支えともなってきただろう。
お二人ともご健康の点で心配されることもあるが、長生きしていただきたいものだ。
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