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秦河勝・聖徳太子と景教


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今日は、聖徳太子とそのブレーンだった秦河勝(はたのかわかつ)と聖徳太子の、キリスト教への「信仰」について書いてみたい。


3/28に書いた下記の記事で、梅原猛氏の新著について少し話題にした。
この記事は、謎の神である摩多羅神(またらしん)について書いたもの。
梅原氏の本を読み終えたので、ちょっと紹介したい。



これは、3/28の朝日新聞夕刊の「摩多羅神 現代人を魅了」という記事をネタに書いたもの。

『うつぼ舟I 翁と河勝』(梅原猛角川学芸出版

うつぼ舟I 翁と河勝

うつぼ舟I 翁と河勝



この『翁と河勝』という本は、『角川学芸WEBマガジン』という変わったメディアで連載されたもの。
それを改題・改稿・再構成したものだ。
このようなWebマガジンと連載があると知っていたら、読んでいたのに。


上記WEBマガジンを読むには、クロッシェというフリーソフトをインストールする必要がある。
無料で読めるWEBマガジンの連載を本にしたって、本は売れないのでは?
そう思ったが、過去の連載記事は既に削除されているし、連載の原稿に手を加えるので大丈夫だということなのか。
連載はまだ続いているが、この本になった部分については、第1章「大荒大明神になった秦河勝」だけまだ残っている。
「続きは本を買って読んでください」ということなのだろう。

秦河勝(はたのかわかつ)

秦河勝は、6世紀後半から7世紀半ばに生きた秦氏出身の豪族だ。
いまの京都の太秦(うずまさ)などを本拠地として、聖徳太子のブレーン及びパトロン(?)だったことでも知られている。
この秦河勝聖徳太子は、景教ネストリウス派キリスト教)または原始基督教を信仰していたと主張する人々がいる。
景教の世界的な研究者だった佐伯好郎博士は、1908年(明治41年)、に論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」を発表した。
ここでは、秦氏景教を信仰するユダヤ人一族であったとする説を唱えている。


私見では、秦氏景教ではなく原始基督教を信仰していた可能性の方が高いのではないかと思う。
だが、実際は一筋縄ではいかない氏族だった。
秦氏が祀る神社仏閣などでは、キリスト教ユダヤ教道教ミトラ教、仏教、シャーマニズムなど、さまざまな宗教が混合した形が見られるのだ。
それで、探究すればするほど、新たな謎に悩まされるということになる。

梅原猛

梅原猛氏は、自称「哲学者」だが、日本古代史、神道、仏教、アイヌ、縄文、芸能など、さまざまな分野で活動している。
仙台で生まれて愛知県で育ち、いまは京都に住んでいる。
京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授、文化功労者文化勲章受章といった肩書きをもつ。
私が若い頃に最初に読んだ梅原氏の本は、たしか仏教に関する本だった。


梅原氏が1972年に著した『隠された十字架―法隆寺論』は、一大センセイションを巻き起こした。
私はまだ26歳で、神道にも古代史にもまったく関心がなかった頃のことだ。
この本では、聖徳太子は「怨霊」として法隆寺などで祀られたという大胆な仮説を出した。
氏はこの本で毎日出版文化賞を受賞し、一躍マスコミで知られるところとなった。
梅原氏の著書で最も売れた本だという。

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)



『翁と河勝』は、秦河勝をテーマとして書かれている。
秦河勝は、能楽の創始者ともされている。
能の東儀家はその子孫であり、若い人々にも人気がある東儀秀樹氏も秦河勝の血を引く末裔なのだ。
この本は形的には芸能論的だが、また摩多羅神秦氏の信仰の謎にも迫っているようでもある。

聖徳太子とイエス信仰

聖徳太子には、イエス信仰がまとわりついている。
そのことについては、1ヶ月ほど前に書いた下記の記事で詳しく書いた。
これから書くことについて前提知識となるものなので、まだ読まれていない方はなるべく目を通していただきたい。

隠された十字架

以下の数十行は、3/28で書いた上記記事から移してきて、一部書き換えたところがある。
読む人にとっては多少重複になってしまうが、お許しください。


私は、2002年に京都と丹後を旅した。
自分の意思ではなく、ダウジングで指示された最初の旅だったと思う。
その後の生涯で始まる聖地巡礼の始まりの頃だった。
そしてこの旅で、「秦氏ユダヤ教キリスト教」という、おそらく一生涯背負わなければならないテーマと出逢った。
古代の日本に、古代イスラエルの失われた10士族の末裔が渡来した可能性だ。
そして京都の秦氏が創建した神社仏閣で見たものは、驚きの連続だった。


聖地巡礼ファイル』「#252 古都に隠された十字架(後編)」で、こう書いた。

本稿のタイトル『古都に隠された十字架』は、もちろん梅原猛の『隠された十字架−法隆寺論』を意識したものだ。
この本では、法隆寺が実は聖徳太子の怨霊を祀るために藤原氏によって再建された寺だという説を唱えている。
だが、それだけで謎が解明されたわけではなく、まだ根本的な謎が残っているとして、この本の最後にこういう意味深なことを書いている。
「一つの謎の解明はまた新たな謎を生み、その謎の解明なしには『隠された十字架』という仮に私がこのエッセエにつけた題名の意味も十分には理解されないであろう。 」 ( 『隠された十字架−法隆寺論』 、梅原猛、新潮社 より)
梅原は法隆寺に、本当の意味での「隠された十字架」 、つまりキリスト教の影響を見据えていたのかもしれない。


この梅原氏の謎めいた記述を読んで、「エッセエにつけた題名の意味」がわかってしまったような気がしたのだ。
だが、それを公然と書くには、まだ自信がない部分があった。
それで、上記の最後の1行のように、かんたんに書くにとどめておいたのだ。
その推測が正しかったかどうかについては、あとで書くことにする。

『隠された十字架』の題名に隠されたものは?

梅原氏はフィールドワークを含めた探究の結果として、秦河勝がじつは聖徳太子と同様に「怨霊」と化していたことをつきとめた。
そのことをテーマとしたのが、『うつぼ舟I 翁と河勝』だった。
聖徳太子の一族が抹殺されたときに、太子に近かった秦氏も犠牲となった。
だが、命は奪われず、島流しとなった。
そして、いまの兵庫県赤穂市(あこうし)坂越(さこし)にある生島という小さな島に流れ着いた。
その数年後に、当地で生涯を閉じたらしい。


死後の河勝は、怨霊と化した。
しかも、「大荒(たいこう)大明神」として畏れ敬われるほどに、大荒れに荒れる怨霊神として。
『翁と河勝』を読めば、そのことが否定できない事実であることがわかる。
坂越の生島の対岸には、河勝が創建したといわれる大避(おおさけ)神社が建っている。
ここの御祭神は、大避大神、天照皇大神、春日大神。
大避大神とは、怨霊として祀られた秦河勝のことだ。


司馬遼太郎は、作家デビュー間もない頃に「兜率天の巡礼」という作品を書いている。
ペルシャの幻術師』という作品集に収められた短編だ。
ここで司馬氏は大避神社を登場させ、秦氏がじつはネストリウス派キリスト教徒の末裔であったという物語にしている。
これは本当に司馬氏がそう信じていたのか、または単なる創作として書いたものかについては、定かではない。
小説家の書くもので示されることは、必ずしも作者の思想そのものとは限らないので要注意だ。

ペルシャの幻術師 (文春文庫)

ペルシャの幻術師 (文春文庫)


大避神社といえば、漢字は違うが京都の秦氏の本拠地・太秦(うずまさ)にも大酒神社がある。
ちなみに、中国ではダビデを「大闢」と漢訳した。
じつは大避神社は大闢神社、つまりダビデを祀っただったのではないかと考える人々がいる。
「闢」という漢字の門構えをはずせば「避」になる。
京都の大酒神社では、たしか神社の由緒書きに、ダビデのことなどが書かれていた。


脱線したが、梅原氏の『翁と河勝』に話を戻す。
梅原氏は、河勝の周囲に付きまとう12の数字の謎に注目する。
たとえば、大避神社の祭りが9月12日に行なわれ、祭りの船渡卸に出る船が12艘、祭りを司る社家が12家、大鳥居前の石段が12段、供物の魚が12匹、大根12本、再選120円といった具合だ。
梅原氏は、12という数字がユダヤ教キリスト教の聖数であることを見逃さなかった。


そして、梅原氏はこう続ける。

私が『隠された十字架』を書いた時、やはり聖徳太子につきまとうキリスト教の影が気になって仕方なかった。聖徳太子は、太子の母・間人皇女がたまたま厩(うまや)の前を通った時にお生まれになった皇子であるという。
(『うつぼ舟I 翁と河勝』、梅原猛角川学芸出版


厩戸皇子(うまやとのみこ)という名前からしても、イエス信仰との関連性があるのだろうかと誰もが思うだろう。
明治時代の歴史学者だった久米邦武も、その一人だった。
唐に渡った僧がキリスト教の説話を倭国にもたらしたと考えた。
だが、そのことに対して否定的な学者もいる。
吉村武彦氏は、久米氏の説を紹介したあとで、こう書いている。

類似している点は確かに興味深いのだが、傍証する史料もなく、単なる偶然の域を出ないだろう。
(『聖徳太子』、吉村武彦、岩波新書


前述の記事「聖徳太子と救い主イエス」を読めば、それが偶然とは思えないという人が多いだろう。
梅原氏は、こうも書いている。

私が法隆寺論を『隠された十字架』という題名にしたのは、表面は聖徳太子には、十字架を背負って殺されたイエス・キリストと同じような悲劇が隠されているという意味であったが、裏面には、日本に移入されたキリスト教がどこかに秘められているのではないかという意味合いを含めたのである。ただ『隠された十字架』を書いた時には、そのことが十分に明らかにされていなかったので、その証明は止めて、題名にそういう暗喩を秘めたのである。
(『うつぼ舟I 翁と河勝』、梅原猛角川学芸出版


梅原氏はさらに、京都帝国大学の池田栄教授の説を紹介する。
それによれば、景教は5世紀前半にササン朝ペルシャの保護で大いに広まり、秦人つまり中国のペルシャ人にも広まったが、その秦人が日本に渡来して秦氏となったという。

私は『隠された十字架』を書いた時、法隆寺にもこのような景教の信仰の跡があるのではないかと思った。法隆寺にはキリストの殉難に等しい聖徳太子の悲劇が隠されていると思われたのでこういう題名にしたのであるが、今は当時よりももっとはっきりと秦河勝は日本最初のキリスト教信者であり、聖徳太子もそれに影響されたのではないかと思っている。
(『うつぼ舟I 翁と河勝』、梅原猛角川学芸出版


ついに本音を吐いてくれたなという感じだ。
私が7年前に『聖地巡礼ファイル』で書いた推測は、まったく正しかった。
自分でも驚いてしまうほどに。
『翁と河勝』の帯には、こうある。

「”もの”が憑かねば、”もの”は書けぬ」−梅原猛自身が怨霊と化して、この「物語」は書かれた。

梅原氏は、よくいろんなものに「憑かれる」ものだと感心する。
「シャーマン的哲学者」なのか。
そういう私も、まるで聖徳太子や河勝翁の怨霊にとり憑かれた梅原氏の想念と同調したかのようだった。
梅原氏が公の場で書く前に、氏が長年隠していたものを先回りして書いてしまったのだ。

謎の摩多羅神(またらしん)

3/28の朝日の記事「摩多羅神 現代人を魅了」については、すでに書いた。
この記事で梅原氏の『翁と河勝』が紹介されているように、摩多羅神についても、本書のひとつのテーマとなっている。
ネタバレになるから書かないが、本書の最後で梅原氏は、摩多羅神を西方のある神と同定している。
だが、私はその説には容易には同意できない。


摩多羅神の実体は、やはりミトラ教ゾロアスター教インド神話のミトラ神(ミスラ)ではないかと思うのだ。
だが、これについて書き始めるとまた長くなるので、また別の機会に探究したい。
一つだけ書いておくと、ミトラ神も(梅原氏が摩多羅神の正体だと言っている)○○○○神も、共通の性質が見えることは興味深い点だ。


朝日の記事では、梅原猛氏は摩多羅神について、こう語る。

(古代の異端キリスト教景教とともに日本に入ったのではないか。何ともいえない非合理的なものが仏教の奥に忍び込んでいることになる。
朝日新聞2009年3月28日(土)夕刊より)


よくぞ言ってくれましたという感じだ。
梅原孟氏といえば、前述のように、文化功労者文化勲章受章者といった立派な肩書きをもつ人だ。
そのような人が、古代日本に景教が入っていた可能性を認めたことになる。
このような「異端的な」説でも、今後少しは市民権が得られるようになるかもしれない。

蘇我氏聖徳太子秦氏の信仰

梅原氏は、聖徳太子キリスト教への関心は、秦河勝の影響によるものだと考えた。
だが、その点で私は意見を異にする。
両者とも、「別の系統から」キリスト教を日本にもたらしたのではないかと推測しているのだ。
ササン朝ペルシャでは、景教ネストリウス派キリスト教)が広まっていた。
その発展の後に、景教は唐にもたらされ、皇帝の保護を得た。
後の空海は、おそらく唐に伝わっていた景教を(密かに)日本に持ち帰った。


蘇我氏の信仰はゾロアスター教と仏教の混合的な部分が見られるが、聖徳太子のそれは、またちょっと毛色が違っているようにも思える。
そして秦氏は、これも雑多な信仰が混ざり込んでいて難しいのだが、その根底にあるのはユダヤ教や原始基督教的なものではないかと考えている。

河勝翁に祈ったこと

私は2002年の京都聖地巡礼で、広隆寺秦河勝像の前で手を合わせ、こう祈った。
「どうか我々に歴史の真実をお示しください」
だが、そう簡単には教えてはもらえなかった。
当時は、そう思っていた。
何しろ相手は「怨霊」なのだ。
しかも、「大荒大明神」などと呼ばれるほどに大荒れに荒れた怨霊だった。


だが、じつは秦河勝翁は、私に重要なことを教えてくれていたのかもしれない。
やはり、私も「とり憑かれた」一人なのかもしれない。


50年ほど前にスペインから日本に来たマリオ・マレガという神父がいた。
マレガ神父によれば、秦河勝が建てた太秦広隆寺は、当初は仏教寺院ではなく古代基督教の教会だったという。
ケン・ジョセフシニア&ジュニア父子の『隠された十字架の国・日本』では、著者(父の方)がマレガ神父から直接聞いたエピソードを紹介している。
それによると、622年に創建され、818年に焼失する前の広隆寺は、窓がなく、大きな入口がひとつだけあり、黒い十字架が一つついている構造だった。

隠された十字架の国・日本―逆説の古代史

隠された十字架の国・日本―逆説の古代史


広隆寺が本当に当初は景教の教会だったとすれば、そこに祀られた弥勒菩薩は、「隠れイエス信仰」の対象だったのだろう。
だが、そうではなく、「隠れミトラ信仰」だった可能性も考えている。
何しろ秦氏は一筋縄ではいかない。
手を合わせて祈っても、なかなか真理を明らかにはしてくれない。


さいきん読んだ『封印された日本古代史ミステリー』(久慈力、学研)では、この広隆寺も「シリウス聖方位」にもとづいて建てられているという。
ミトラ教を信仰した古代の国々で共通に見られるものだ。
となると、やはり景教だけでなくミトラ教も念頭に置かなければならない。


1ヶ月ほど前に書いた下記の記事で、聖徳太子ペルシャ系ではないかと書いた。

現時点では特定はむずかしいが、蘇我氏一族を含めて、ペルシャ人、サカ族、ソグド人のいずれかの可能性を考えている。
また、太子が住んだ斑鳩の地は、ミトラ教にかかわる「シリウス聖方位」にもとづいて造られていた。
これもまた、一生続く探究となるかもしれない。

憑かれる”もの”

最後に、梅原氏も勇気を出して書いているのだからということで、ここで普段は書かないことを暴露しておこう。
私も一つの”もの”に憑かれると、他のことが手につかなくなる人間なのだ、とういことを。
もちろん、ここでいう「もの」は「者」でも「物」でもなく、「霊(もの)」なのだが。


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