先日、1ヶ月前にDVDレコーダーで録画した番組を、やっと見た。
正月に録画したいくつかの番組は、暇がなくてまだ見れないでいる。
飛鳥時代に聖徳太子が創建したといわれる法隆寺。
現存する世界最古の木造建築だ。
昨年、その中心となる伽藍・金堂で大規模な修復工事が行われた。
それに伴い、金堂内の仏像群を堂外に移動することとなった。
普段は撮影できない国宝の仏像を撮影することができた。
仏像は太子の似姿だった
同時に、建物の科学的調査も行なわれた。
法隆寺は一度火災に遭い、現在の伽藍は再建されたものだと思われていた。
だが、金堂で使用されている木材の年輪を調査したところ、意外な結果が出た。
金堂には、仏像を乗せるための須味壇(しゅみだん)という、土を固めた台がある。
昨年、ここに亀裂が入っているのが見つかり、修理工事の間、仏像を外に出すことになった。
670年、法隆寺は火災で焼失した。
全焼したにもかかわらず、太子の存命中に作られた本尊などの仏像が残っていた。
それが釈迦三尊像だ。
もう一体、火災を免れたものが夢殿にある。
国宝・救世観音だ。
木仏だったため金箔が良く残っている。
こちらも聖徳太子の御影、つまり実像を映したものといわれる。
その本尊の釈迦三尊像の光背(こうはい)の裏に、文字が書かれていたのが発見された。
そこには、622年に太子の成仏を願って完成させたとある。
そして、「尺寸応身(しゃくすんおうしん)」の文字が。
つまり、太子の身の丈を写して仏像を造ったというのだ。
この仏像の顔立ちを見ると、鼻の高さなどからして、まるで西域の人のようだ。
やはりペルシャ系、またはソグド人あたりの血が入っているのだろうか。
だが、作成年代からして、じつはもっと後世の人物の姿を模したものだという説もある。
何のための再建か?
焼失した伽藍は、誰が何のために再建したのだろうか?
火災のときに、重さ500Kgの釈迦像をどうやって運び出したのか?
法隆寺が、670年に焼失した時に建っていたところとは別の場所に再建したのは何故なのか?
そのような謎を、科学の力で解明しようという試みが始まった。
屋根裏の木の面皮から検出した年輪をデジカメで撮影し、奈良文化財研究所に持ち込まれ、年輪の幅をPCで解析する。
その結果、668年に伐採された木であることが判明した。
このことによって、この金堂が、670年に焼失した最初の法隆寺建立の前に建立が始められていたのではないかと推測される。
法隆寺は、天智天皇の時代(〜671年)に既に準備されていたのではないか。
蘇我入鹿などの豪族との戦いで国は乱れ、国外では唐や朝鮮半島の脅威があった。
そうした混乱の時代に、聖徳太子の威光に頼って内政を固めようとしたのではないか。
仏教による全国統治を推進するため、その中心を整備し、聖徳太子の威光で仏教の伝播による安定した統治を図ったと考えられる。
阿弥陀如来像は鎌倉時代のものだが、その台座は飛鳥時代のものだ。
当初は別の仏像が乗っていたのだ。
漆の塗り残しから、直径70cmで円形の設置面を持つ仏像が推定された。
この条件に合致するものは、夢殿の救世観音だった。
つまり、太子を模した像が2体並んで置かれていた。
また玉虫厨子もここにあったと思われ、法隆寺は太子を称え、太子の威光を示すために建立されたと思われる。
金堂は太子の姿を通じて、豪族にもわかりやすい形になっていた。
中央に金色に輝く釈迦三尊像があり、隣には救世観音があり、また玉虫厨子も仏の教えを説法するために置かれた。
「創作」としての聖徳太子像
この番組を見て再認識させられたのは、聖徳太子という人物の業績の多くは「創られたもの」ではないかということ。
それは、梅原猛氏が説くところの怨霊信仰の故でもあったし、またこの番組が解明しているように、仏教を国家統一に利用するために「聖人」を創りあげる必要があったためでもある。
なので、学校で習う聖徳太子像などは話半分として聞いておいたほうが良いかもしれない。
十七条憲法なども、聖徳太子が書いた「そのまま」のものではないことが、ほぼ証明されている。
聖徳太子はまったく関与していなかった可能性もある。
有名な憲法の「和を以(もっ)て貴(とうと)しとなす」も、地方豪族たちに反乱をやめさせたいがためのものだったのだろう。
そのことについては、下記の記事で書いている。
- 日本書紀の謎を解く−述作者は誰か
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20060212/shoki
このように聖徳太子の業績が後世に付会された部分が多いと、太子の本当の信仰はどういうものだったのかを見極めるのはきわめて困難になる。
太子が仏教一辺倒だったというのも、ひとつの虚像であって、そのまま受け入れるわけにはいかない。
ただ、斑鳩の都がシリウス方位によって造られているところを見ると、ミトラ(ミトラス)信仰のようなものはあったのかもしれない。
景教については、秦河勝の入れ知恵なのか、それとも太子本人がもともと持っていたものかはわからない。
だが、蘇我氏や太子一族がペルシャ系渡来人であれば、ミトラ教、ゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教(景教)、弥勒信仰などが混在していても不思議ではない。
ササン朝ペルシャでも、そのような要素があった。
7世紀半ばにイスラム帝国によって滅亡したササン朝の人々が東へ逃れ、中国や朝鮮半島を経由して日本に渡ってきたのかもしれない。
その中には、ペルシャに同化していたイスラエル10支族の末裔がいた可能性もある。
秦氏にしても同じで、数万という規模で渡来してきた人々がすべて同じ地域に住んでいたのではないかもしれない。
そして、久慈力氏が『聖徳太子と斑鳩京の謎―ミトラ教とシリウス信仰の都』で書いているように、信仰もさまざまなものが混じり合っていた可能性がある。
法隆寺にも「シリウス方位」が
下記のページに、「若草伽藍・斑鳩宮配置図」がある。
焼失前の法隆寺が建っていた位置を示すものだ。
上記の図を見ると、焼失前の法隆寺は、「シリウス方位」に沿って建てられていたことがわかる。
つまり、正確な北から西へ20度傾いた方位に沿って建っているのだ。
シリウス方位については、下記の記事の「シリウスの都」の項で紹介している。
以前にも書いたように、斑鳩の都全体が「シリウス方位」に沿って造られていた。
これに対して現法隆寺は、完全に東西南北に一致していないが、傾斜が緩やかになっている。
この頃には、20度傾斜させる意味がわからなくなっていたのだろうか。
天智天皇・持統天皇は、「シリウス信仰」をもっていなかったことが推測できる。
果たして聖徳太子は、ミトラ教のシリウス信仰をもっていたのだろうか。
聖徳太子には、厩戸皇子の名が示すように、イエス信仰が見えていた。
このこととミトラ教信仰とは、かならずしも矛盾はしない。