今日は、人を信じることの大切さについて考えてみる。
人を信じることができない人の中には、自分が嘘つきだから、他の人々もきっと自分と同じ嘘つきに違いないという価値観をもっている場合も少なくないのではないか。
前々からそう思っていたら、どこかの国の思想家か誰かが、同じようなことを書いていたのに出逢った。
およそ人がものごとに対して抱く価値観というものは、その本人がどういう人物であるかということによって、大きく変わってくる。
人を信じる行為というのは、尊いものだと思う。
たとえば、不思議現象を長年追い求めてきた人間としていえることは、不思議体験をしたという人の体験を受け入れるのは、その人に対する信頼によって成り立っている部分が大きい。
「正当な理由」もないのに人の体験を疑うことは、私に言わせれば人間に対する冒涜的な行為でさえあるのではないか。
たんに自分が「信じられない」というだけで、人を疑うことはしたくない。
不思議体験をしたという人の中には、たしかに「思い込みではないのか」と思わせることが多々ある。
そういう思い込みが激しい人が、実際この世界では多いように思う。
要するに、「熟考」とか「検証」とかいうプロセスを経ないで、人の体験を鵜呑みにしてしまったりする人々のことだ。
だが、ある人が普通の人々には見えない何かを「見た」というならば、それはたしかに何かを見たのだろうというところから話が始まる。そうでありたい。
いまの世界、特に欧米や中東の人々の価値観を見ていると、あたかも「人間は信じられないもの」という大前提の上に世の中が成り立っているような気がしてくる。
アジアの国々でも、たとえば多民族国家であるインドネシアでは、同民族間では信頼し合っているのに、多民族では容易に心を開かないというようなところがある。
たとえば初対面の人間にどこまで気を許すかという判断基準において、同民族かそうでないかが、決定的な違いを生じるのだ。
特に書面による契約を重んじる「契約社会」が進んでいる文化圏などでは、特にそういう面が強いだろう。
そういう意味では、日本人は「単一民族」だから(本当は多民族なのだが)、日本人同士の信頼感をいうものが強いのだろう。
いまの世の中の男女の恋愛は、騙し騙されの化かし合いで成り立っているのではないかと思ってしまう。
愛する伴侶や恋人同士も、信じるということによって成り立っていることは、言うまでもない。
結婚していなければ浮気はしても良いのかといえば、二股かけたりするような人間に対して、本当の意味でその人間を信じられるだろうか?
なんだかんだいって正当化しても、要するに愛する人を騙している大ウソつきなのだから、そういう人間に対する信頼感が薄らいでも、自業自得ではあるだろう。
人を信じることが「デフォルトモード」であるような人生を生きられればいいなという話でした。