下記の前日の記事からの続き。
https://www.tankyu2.com/entry/20050415/anpan
この記事は、2005/04/16に投稿した記事を日付を変えて、加筆訂正して再掲したものです。
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顔を与える
もとの原作のマンガでは、アンパンマンは困った人や空腹の人がいると、自分の顔をちぎって「ぼくの顔を食べなよ」と差し出すそうだ。
このあたりは、キリスト教的であり、また仏教的でもある。
それにしても、自分の体の一部を人に与えてしまうという発想はすごい。
これ以上の慈悲による自己犠牲はないだろう。
当初のアンパンマンは、やなせ氏が既存の正義の味方像に対するアンチテーゼとして描いていたという。
それは、戦中・戦後の深刻な食糧事情の時代を生きたやなせ氏の体験から来たものだったらしい。
当時、空腹で「食べ物が向こうからやって来たらいいのに」と思っていたという。
本当の正義
やなせ氏は、こう書いている。
「ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです」
なるほど。
たしかに、時代は変わっても、型にはまった正義の味方像って、何十年も変わっていない。
それでも子供たちが飽きずに見るのは、そういうものへの憧れがいつの時代にもあるからだろう。
だが、再度書くと、正義の名のもとで人をあやめてはいけないだろう。
こういうものを見ることで、潜在的なさつじん願望や暴力願望を満たしていると思われても仕方がない。
キリストやブッダが子供たちの英雄になる時代って、いつか来るのだろうか。
自己犠牲
米国では、アンパンマンが放映されたことがあったらしい。
だが、その割には海外ではまったく話題にならない。
自分の顔を人に食べさせるという行為が、不潔だから子供に見せたくないという意見が多いようだ。
また、米国では自分を犠牲にして相手に幸せになってもらうという発想自体がないためだとも言われる。
そのあたりで、欧米の個人主義とアジアの世界観の根本的な違いがあるのだろうか。
そもそも、欧米で人々が信仰するキリスト教では、自己犠牲による愛を説いている。
だが、実際には欧米の人々の多くでは、人に自分の頭を与えるなどは「気持ち悪い」行為でしかないようだ。
当初、私はやなせ氏がキリスト教徒ではないかと思っていて、調べるとネット上で実際にそういう説があった。
だが、それは事実ではなかったようだ。
たとえキリスト教を信仰していなかったとしても、やなせ氏の考え方やアンパンマンには、どこかイエスの教えと共通する部分を感じてしまうのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ばいきんまん
(上記ページの検索窓から「ばいきんまん」で検索してみて)
http://homepage2.nifty.com/room30th/sermon/ampanman.html