大晦日に諏訪へ行って、諏訪信仰と古代イスラエルの関係について再度考えさせられることがありました。
そこで、この問題について、いままでいろんなところに書き散らしたことを簡単にまとめることにします。
秦氏と古代イスラエルの関係に比べると、いままで半信半疑な部分があったし、また自分の先祖や後ろについている存在に関わることでもあるので、どうしても慎重になってしまいます。
今日もちょっとネット上で調べたところ、新たな驚くべき点がいろいろ出てきました。
そのことについても、ちょっと紹介します。
イスラエル大使エリ・コーヘン氏
最近この問題がまた気になりだしたきっかけは、駐日イスラエル大使エリ・コーヘン氏の本『大使が書いた日本人とユダヤ人』を読んだことにあります。
コーヘン氏は2004年からイスラエル大使となりましたが、若い頃から日本の松濤館流の空手をやっていて、武士道などの精神や日本文化に大きく影響を受けた人なんですね。
コーヘン氏が日本文化について学ぶにつれてわかってきたのは、ユダヤ教と日本神道との間に多くの共通点があることでした。
氏が語るには、武士道にもユダヤ人精神と共通する部分が大いにあるそうですが、このことについては省略します。
興味がある人は、この本を読んでみてください。
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1986年に空手の使節団として来日したコーヘン氏は、伊勢神宮に参拝し、神道にユダヤ教との共通点が多くあることに気づきました。
礼拝の前に手や口を清めること、神官の服装、神社の作り、偶像がないこと…等でした。
その後に日本の文化や宗教について学ぶにつれてわかってきたことは、「日本人は宗教的な民族だ」ということでした。
日本人は宗教に無関心ではないし、無宗教でもないと思う。ただ、普段の生活の中に染み込んでいる宗教を特に意識していないだけなのではないだろうか。日本人が意識するしないにかかわらず、その根底には神道があるように思う。
(『大使が書いた日本人とユダヤ人』、エリ・コーヘン著、中経出版より)
これを読んで、たしかにそうだと思いました。
そうなんだ、特定の宗教に縛られていないだけなんだ、と。
日本人として、嬉しくなりました。
三笠宮殿下のお考え
コーヘン氏は、三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、以下「三笠宮殿下」とする)と、この問題について話し合ったことがありました。
三笠宮殿下は、故昭和天皇の弟君ですが、古代オリエント史を研究される歴史学者でもあり、ヘブライ語が堪能で聖書やユダヤ問題についても博識な方です。
三笠宮殿下はその後に、いわゆる日猶同祖論について、コーヘン氏にメッセージを託しました。
それはこういうものでした。
イスラエル民族と日本民族は違う民族である。しかしながら民族の違いはあったとしても、協力していく方法やお互いに学び合う道は見出すことができる。
(『大使が書いた日本人とユダヤ人』、エリ・コーヘン著、中経出版より)
私はかつて『江上波夫氏と三笠宮崇仁殿下』という小論を書きましたが、この内容について、若干修正しなければならないでしょう。
三笠宮殿下は日本に古代イスラエルの民が渡来したことについて、否定的だったようです。
諏訪大社の御頭祭とイサク伝承
諏訪のことを書くつもりが、だいぶ脱線してしまいましたねー。^^;
コーヘン氏は次に、「日本における古代イスラエルの伝承」という章で、諏訪大社上社前宮で行われる御頭祭(おんとうさい)について紹介しています。
かつてこの祭りでは、奇妙な風習がありました。
8歳ぐらいの子供が2メートルほどの御杖(みつえ)柱に縛られて、神官が子供に刃物を振り上げるしぐさをした後で、別の人間が現れて、それを止めて子供が解放される。
いまでは子供に対して残酷だということで、この風習はなくなっています。
実はこの風習は、旧約聖書のアブラハムとイサクの話にそっくりなんですね。
アブラハムは神から、自分の息子をモリヤの地へ連れて行って生贄として捧げるように言われる。
言われるままに息子を刃物で屠ろうとしたときに、神の遣いが現れてそれを止めます。
そしてそこに雄羊がいて、それを代わりに神に捧げました。
更に詳しいことを知りたい人で、聖書をもっていたら、創世記22章を読んでみてください。
もっていない人は、下記ページにも書かれています。
http://www.geocities.jp/sugi_joy/joy-lands/bible/bisou221.html
【追記(2011/02/06)】御頭祭の神事については、江戸時代に菅江真澄が報告している内容に一部信頼性に欠ける部分があるため、この解釈には問題があることがわかりました。
モリヤというのはエルサレムにある、いまは神殿が建っている山だとされています。
その後の紀元前1027年に、ソロモン王がそこに神殿を建てました。
諏訪大社の元もとの神であるミサクチ(ミシャグジ、ミシャクチ、etc)は、「御+イサク+チ」と分解でき、そこにイサクの名前が含まれるという説もありますが、これはちょっとコジツケっぽい。
75という数字の不思議
御頭祭では、かつては75頭の鹿を供物として供えました。
もし仮に、諏訪信仰にユダヤ教の風習が入り込んでいるとしたら、この75という数字に意味があるに違いないと思っていました。
そして見つけたのが、以前の記事でも書きましたが、『日本の中のユダヤ文化―聖書に隠された神道のルーツと極東イスラエルの真相』(久保有政著)という本の記述でした。
日本の中のユダヤ文化―聖書に隠された神道のルーツと極東イスラエルの真相 (ムー・スーパーミステリーブックス)
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私が驚かされたのは、以下の記述でした。
著者の友人があるとき、イスラエルのサマリアへ行った。
サマリアに住むサマリア人たちは、かつてのイスラエル十支族と異民族との混血だという。
彼らはいまだに過越しの祭りを毎年行うが、そこでは子羊を犠牲として神に捧げる。
著者の友人はサマリア人の祭司に、子羊を何頭ぐらい屠るのかと聞いてみた。
すると、今は45頭だが、かつては75頭屠っていたという答えが返ってきた。
古代イスラエルでは子羊だったのが、日本では羊がいなかったので、代わりに鹿を捧げるようになったのかもしれません。
ちなみに、ユダヤ教には食べ物に対する厳しい戒律がありますが、鹿は羊と共に、立派なコシェル(食べても良い食物)です。
ちなみに、この過越しの祭り(ペサハ)が行われるのはユダヤ暦のニーサーン(第1月)の15日から21日ですが、これは西暦の3月から4月にあたり、ちょうど御頭祭が行われる頃なんですね。
現在は4月15日に行われますが、かつては旧暦3月の酉の日(今の4月中旬頃)に行われていました。
75という数字の符合は、他にもあります。
下記は、海外のあるサイトで見つけた記述です。
「Abraham lived till Isaac was seventy-five years old,」
つまり、アブラハムは息子のイサクが75歳になるまで生きたというのです。
アブラハムとは、神に祝福されたユダヤの最初の預言者です。
そのアブラハムは、75歳のときに、神ヤハウェに「あなたを大いなる国民にする」と祝福され、100歳になったときに嫡子のイサクが生まれました。
75という数字は、このようにアブラハムとイサクの伝承に関わっているんですね。
また、上社前宮には十間廊という建物があります。
『日本の中のユダヤ文化』によると、この建物のサイズが古代イスラエルの幕屋と同じだそうです。
幕屋は長さが30キュビト(13メートル)、幅が10キュビト(約4メートル半)で、十間廊も同じ大きさで、入口が東側にあるところまで同じとのことです。
御頭祭では、この十間廊に屠られ75頭の鹿などの供物が供えられます。
守矢氏の謎
実はモリヤというのは山の名前だけでなく、建御名方神(タケミナカタノカミ)が諏訪大社に祀られる以前に諏訪の先住民が信仰していた神が漏矢(モレヤ)の神という名前だったのです。
そして、それを祭祀していたのが守矢氏でした。
建御名方神の子孫である諏訪氏は「大祝(おおほうり)」という生き神の地位に就き、洩矢神の子孫である守矢氏は「神長官(じんちょうがん)」という筆頭神官の地位に就きました。
現在の守矢家の当主は78代というから、一代25年として2000年近くも続いていることになります。
今日ネットで検索していて初めて知ったのは、その守矢家の当主(女性)は、じつはクリスチャンなんだそうです(下記ページでは守矢の字が間違ってますが)。↓
http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda3/75ZLBslgFL5yc41381.htm
じつはその守矢家の家紋が、丸に十字なんですね。
まるで景教の十字架のようです。
また下記ページによれば、諏訪大社の神主の娘である某女性は、「我々の先祖はユダヤ人だ」と昔から家で伝わっていたと証言しているとか。
これがもし本当だったら、驚くべきことです。
http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda2/90mamPcy2bM09048.htm
上記ページに出てくる「K氏」というのは、もしかしたら諏訪大社下社の神官家であった金刺氏かもしれませんが、金刺氏はずっと昔に滅ぼされたはずなので、違うでしょう。
ただ、金刺氏というのは神八井耳命を祖としていて、あの多氏と同系なんですね。
多氏については『多氏渡来人説』という小論で書いていますが、秦氏と関係が深く、秦氏と同じところから渡来したかもしれません。↓
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/C-IL-Oouji.html
その辺で、古代イスラエルとのつながりが考えられなくもないのではないかと。
梶紋にメノラが…?
これは私が気づいたことですが、ヒントとなったのは、エリ・コーヘン氏が『大使が書いた日本人とユダヤ人』に書いている、倭大国魂神社(徳島県)の神紋にメノラが含まれているという主張でした。
メノラ(menorah)というのは、ユダヤ教のシンボルである七枝樹の蜀台のことです。
下記のWikipediaのページに写真があります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Menorah
これと、諏訪大社下社で撮った梶葉の神紋と比べてみてください。
上部の葉のいちばん先っぽの部分に、メノラと似た形があります。↓
この梶の葉の紋が諏訪大社の神紋となったのは、平安時代の頃だとも言われています。
まあ、これは単なる「他人の空似」なのかもしれませんが。
この神紋は、場合によっては七枝ではなく九枝であったりするのも、説得力に欠ける点かもしれません。
こういう相似のケースは、諏訪大社の神紋以外にも探せばもっと見つかるかもしれません。
メノラと本当に関係あるかどうかは別として。
御柱との関連
諏訪大社最大の祭である御柱祭は、古代イスラエルとの関連はなさそうに見えます。
ただ、柱を立てるというところに焦点を当ててみると、関係なくもないことがあります。
古代パレスティナでは、アシェラという異教の女神が信仰されていました。
このアシェラは、木の柱という象徴として信仰されていました。
木の柱を建てるという点で共通点があります。
このアシェラの神名が日本に渡って日本語のハシラ(柱)になったという説もあります。
日本では神の数を1柱2柱と数えますが、神=柱という概念があったことはたしかでしょう。
御柱との関係では、むしろネパール・カトマンドゥのネワール族の柱建て祭に注目すべきでしょう。
どうでしょうか。これだけ並べると、少しは説得力が出てくるでしょうか。
たとえ古代イスラエルの民(失われた十支族)の一部が古代の諏訪にたどり着いたとしても、それは秦氏とは別系統なのかもしれません。
更に探求を続けることにします。