この記事は、2007/08/13に投稿したものを加筆訂正したものです。
■お盆
今日は旧暦1日。
旧暦1日がちょうど新月になるとは限らないけれど、今日はそうみたいですね。
火の神と神棚に供物を供える日で、朝ちょっと早く起きて、それをやってから出勤しました。
(この頃はフリーのSEとして働いていた)
常駐先の会社では、人が少なくて静かでした。
お盆の帰省ラッシュは、明日がピークだとか。
私のところには、いろんな相談事が舞い込んできます。
霊的なことで悩んでいる人が多いです。
女性でも、かなりプライヴェイトなことに突っ込んだ内容を書いてくる人が、けっこういます。
もちろん、そうやって知りえた内容は、決して人には他言しませんが。
私の場合、本名とか住所とかプライヴェイトなこととか、包み隠さず公開しているので、信頼してくれるというのもあるみたいです。
だいたいそういう相談事のメールがたくさん来る時期というのがあって、一つには、やっぱりお盆ですね。
だから、そろそろ来るんじゃないかと思っていました。
■人のために
さきほど夕食中に、閃いたことがありました。
今日は、そのことをちょっと書いておきます。
「辛い時ほど、人のために何かをする」
そうすれば、『「辛い」という状態に堕ちている自分』から脱することができるのだということを。
また、そのような心構えをもって実行するほど、上の方にいる存在が手を差し伸べてくれるのではないか。
自分なりの経験則です。
「人のために」ということについては、人それぞれあると思います。
特定の人のために、何かしてあげるとか。
不特定の人々のために、とか。
私の場合は、人(々)のために、または世界のために祈る、ということが多いですね。
■ジコチューからの脱皮
私の場合、自然とそういうことをやってきたように思うんです。
もっとも、昔からそういうことができたわけではありません。
30歳ぐらいまでは、とにかくジコチューな人間でした。
いま思うと、赤面するぐらいに。
ほんとに自分のことしか考えていないような人間だった。
それが少しずつ変わっていったのは、30歳頃の時の一連の霊的な体験でした。
世界の平和ということを考えるようになったのは、この頃だったかな。
一生懸命祈りました。
この罪深い人間がいままで我侭放題生きてきて、少しでもお返ししようと。
そしてインドネシア派遣の仕事が来て、最初は楽しかったけれど、更に辛い日々が待っていました。
それは自分のせいだったのだけど。
そこでも一生懸命祈りました。
中部ジャワ島のプランバナン寺院群などへ聖地巡礼して、インドネシアの平和のために。
戦争で亡くなった人々のために。
■辛い時ほど
「辛い時ほど、人のために何かをする」
その頃は、まだこのようなコンセプトが言語化して心の中にあったわけではありませんでした。
でも、そのような行動をとって、良かったのだと思います。
多少なりとも、自分というものを客観的に眺められるようにもなったし。
辛い時というのは、自分から自由になる良いチャンスではないかと思います。
辛くて苦しくて、しにたいと思うようなときに、ふと自分に与えられた課題に気づく。
そんな時に、たとえば私だったら、聖地巡礼して、その土地土地に住む人々がみんな幸せになり、地域全体が発展しますようにと祈る。
あるいは、困っている人たちの相談を受けてあげる。
そういうことに集中していると、ふと自分が辛かったんだということを忘れている自分に気づくんですね。
これが、私が言うところの「自分から自由に」なった状態です。
自分の心が少しずつ開けてくると思うんです。
しかしながら、なかなか悟れない自分がいる。
つい安易な方向へ流れていってしまう自分がいる。
いつも思うんですが、なにもかもうまく行くときよりも、辛くてたまらないという時の方が、自分の魂が霊的に成長する良いチャンスなんですね。
「いまある自分」から解放されて自由になって、さらに一つ高いところの自分に出逢う。
みんな「自分のせい」なんですが、それでも自分にできることはしてあげたい。
■辛い時ほど
現代の日本に住む人たちは、
特に都会の人たち
みんな、いろんなことで忙しいみたいですね。
自分のために何かをやることにおいて。
でも…
「自分のためでないことのために何かをする」
これで超えられると思うんですよ。
いろんな誘惑があって、なかなか難しいですけどね。
それと、「ためにする」ではいけないと思うんです。
たとえそうでも、やらないよりはやった方がいいのではないかとも思うけれど。
ジコチューよりはタコチューの方が(?)