今日(1/25付け)の朝日新聞朝刊をパラパラめくっていて、ある写真に目が止まった。
年中多忙な人間なので、ゆっくり新聞を読んでいるという暇がない。
なので、私にとって新聞は「読むもの」ではなくて、「パラパラめくるもの」なのだ。
そして、自分にとって最低限必要だと思った記事だけ読む。
その、目が止まったという写真は、非常にショッキングなものだった。
大量のヒヨコが、ベルトコンベア−に乗せられて運ばれている場面なのだ。
「いのちの食べかた」という映画の1コマだ。
オーストリアとドイツの合作のドキュメンタリー映画。
92分間、音楽もナレーションもなく、淡々と現実の映像を映し出すのだという。
この映画が東京の小さな映画館で封切られたが、次第に口コミやネットで話題になっていった。
ベルトコンベアーに乗せられたヒヨコたち
その「映画で考える 海外作品相次ぎ公開」と題した記事は、こう始まっている。
身近な食べ物に対する不安や不信は、私たちが生産や流通の過程を「知らないでいること」に一因があるのではないか。
だが、このような場面は、意図的に知らされていなかいというのが本当だろう。
生まれたばかりのヒヨコたちは、選別されていき、その後どうなるのだろうか?
この映画の予告編を、公式サイトで見ることができる。↓
http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/
また、YouTubeでも投稿がある。
ヒヨコたちは、ベルトコンベアーに乗せられて、ポンポンと投げられ、まるで物のように放り出されていく。
生命に対する尊厳はどこにあるのだろうかと思ってしまう。
もうちょっと他にやり方はないのか、と。
こういう予告編のたぐいをブログで貼り付けることは、映画の宣伝になるだろうから、問題ないのではないか。
…という解釈で、貼り付けておく。
ただし、予告編だけでもかなりショッキングな内容なので、見るか見ないか、よく考えてからにしてください。
日々の糧
「いのちの食べかた」という邦題もアイロニーが込められたというかすごい題名だが、原題は「Our Daily Bread」という。
このフレーズ、ご存知だろうか。
クリスチャンの方々にとってはお馴染みの「主の祈り」の英語版の一節なのだ。
「Give us this day our daily bread(今日われらに日々の糧を与え給え)」
「マタイによる福音書」で示されている、イエスさまが弟子たちに直々に教えた祈りだ。
この映画のタイトルに「主の祈り」の一説をつけたということに、痛烈なアイロニーを感じる。
私はセミヴェジタリアンで、基本的に肉は食べない。
だが、家で鶏肉などを出されれば食べることもある。
ああいう映像を見せられては、鶏肉も一切食べられなくなるかもしれない。
少なくとも、「若鶏」を食べることはしたくなはないものだ。
人間にたとえてみれば、幼児たちが殺されて食べ物にされるようなものではないか。
もっとも、幸いなことにというか、この地球上で最ものさばっているヒトという動物にとって、天敵は存在しないが。
現実を見るべきか否か
われわれは、家畜が食肉になっていく過程を、意図的に知らされていない。
それは、あまりに残酷だからということなのか。
それとも、食肉の需要が少しでも減っては大変ということか。
以前はBSE問題もあったことだし。
「モノ」のように扱われて死んでいく動物たちを見たくないというのは、誰でも同じだろう。
だが、それではいつまでたっても現実が知らされないことになる。
「見てみたい」と「見たくない」という気持ちが複雑に交叉する。
そんな映画だ。
特に子供たちに見せるには刺激が強すぎる映画かもしれない。
見せるべきか、見せないべきか。
親にとって、それも悩むところだろう。
少なくとも、このようなショッキングな映画を見たあとでは、人間たちに食べられるために死んでいった動物たちに対する感謝の気持ちが、自然に沸いてくるのではないか。
いただきます
その「感謝の気持ち」について考えさせられることを書いているブログを見つけたので、紹介する。
ちなみに、このブログを書いている人は「Vegan」だそうだ。
肉、魚介類、卵、乳製品を摂らず、毛皮、革製品を身に付けない人のことだ。
- 「いただきます!」の本当の意味
http://macveg.blog68.fc2.com/blog-entry-139.html
世界に広まりつつある「もったいない」という日本語は美しい響きがある。
そして「いただきます」という日本語も、神さまからいただいた食物に対する感謝の念がよく現れた表現だろう。
たとえ肉や魚を食べなければならないとしても、感謝の念だけは忘れたくないものだ。
感謝の念といえば、私はいつも書いているとおり、食べ物を残すということができない。
誰から言われたのでもなく、いつかしら自然とそうなっていた。
刺身のつまや、付け合せのパセリさえ残さないでいただく。
だが、同じようにすることを家族やまわりの人々に強いるようなことはしない。
スピリチュアルな観点に立てば、人間が真の健康を得られるかどうかは、このようなことにもかかわってくるのではないかと日頃から思っている。